真田庵(善名称院)の境内には昌幸の墓と真田三代を祀った真田地主大権現がある。毎年5月に開催される「真田まつり」では武者行列のゴール地点になっており、大勢の人たちで賑わう

 連載第11回でもお伝えした通り、高野山へ流罪となった真田昌幸・信繁親子とその家臣一行はまずは先祖代々の宿坊である蓮華定院に入りしばらく逗留した後、麓の九度山村に降りて生活するようになった。九度山では昌幸と信繁は別々に屋敷を構えて暮らしていた。「先公実録」によれば、昌幸の住居跡は「道場海東」と呼ばれていた。「海東」とは「垣内」の当て字で、村のお堂のような寺院を改修して屋敷としていたと思われる。現在、その場所に建っているのが善名称院だ。「真田庵」と呼ばれて多くの人々に親しまれている。

 昌幸の死後、100年以上経った寛保元年(1741)、大安上人という僧侶が修行中に森の中を通りかかったところ、飛来した一羽の白鷺から「屋敷を開いて地蔵尊の堂を建て、真田公を地主権現と仰ぎ祀るべし」と告げられた。その場所こそかつて昌幸の屋敷があったところだったのだ。大安上人はお告げ通り、この場所に善名称院を建てた──という伝説が残っている。その後、昌幸が暮らしていた場所だったので、真田庵と呼ばれるようになった。境内には、昌幸の墓と昌幸と信繁と大助を祀った真田地主大権現がある。

 

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●昌幸の墓

昌幸の墓

 かつての地元の人たちが昌幸を偲んで建てた墓。遺骨は分骨され、上田の長谷寺にも埋葬された。そばには大坂夏の陣で討ち死にした信繁とその子・大助の供養塔も寄り添うように建てられている。

 

●真田地主大権現

昌幸と信繁と大助を祀った社がある

 大安上人がこの地に寺を建てて住み始めたところ、怒りの形相の昌幸の霊が頻繁に現れるようになった。そこで昌幸の御霊をこの地の大権現の神様にして祀った。すると昌幸の霊が穏やかな表情になり、祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束した──という伝説もある。当初は昌幸だけだったが、後に地元の人たちによって、信繁、大助も祀られたと考えられている。