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●真田父子・家臣の暮らし

 では真田父子・家臣たちの九度山での暮らしはどんなものだったのだろう。関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が甲斐16万石から九度山村のある紀伊37万7000石に移封されたが、この幸長の父、長政は秀吉と親戚関係だったことから、豊臣方とは親密な関係にあった。そのため、幸長から九度山村の真田へ毎年50石の米が送られていた(「先公実録」)。さらに松代の信之からも100石程度が送付されていたとみられているので、真田は合わせて毎年150石程度の米を得ていた。これが純然たる食料となるわけだが、江戸時代の扶持米で計算すると、150石で年間養える人数は80~90人。この事からも、九度山に来た真田父子、親族、家臣の総人数はその程度だったと推定される。

 さらに幸長と信之の合力米に加え、信濃の縁者、蓮華定院、地元の有力者などからも援助を得ていた。しかし、真田父子は国許などにさらなる米や酒、金品、諸物資などを無心する書状を送っている。このことから経済的には困窮していたと想像できる。

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●当初は楽観的だった?

 昌幸は九度山に流された当初はかなり楽観的だったようだ。というのは、家康は関ヶ原の戦い後、全国の大名の処分に2年を要し、それらが終了した慶長8年(1603)、征夷大将軍になった。その時、恩赦があるのではないかという噂が広まり、処分された豊臣方についた大名たちは色めき立った。昌幸も慶長8年3月15日に国許の信綱寺に宛てて出した書状には、赦免されて国許へ帰る希望が書かれている。また、信之を通じて本田忠勝や井伊直政に自身の赦免運動をするよう働きかけていた。しかし実際に赦免された大名はごくわずか。改易された88の大名の中で復帰できたのは7家のみ。しかも、元の石高からは程遠い1万~3万石で復帰というお寒いものだった。

 ちなみに、慶長15年(1610)10月18日に忠勝が死去した際、その葬儀のため、昌幸は蓮華定院の僧侶を信之のもとへ派遣している(『真田家文書』上、『九度山町史』史料編)。その際、「蓮華定院には日頃世話になっているから十分にもてなすように」とも指示している。純粋に忠勝への謝意からの行動だとは思うが、したたかな昌幸のこと、徳川四天王に数えられ、家康の天下統一の最大の功労者の1人である忠勝の葬儀に蓮華定院の僧侶を派遣することで、家康の心証を少しでもよくしたいという企みもあったのではないだろうか。