1ページ目から読む
2/5ページ目

●流人ながら異例の優遇を受けていた真田父子

 昌幸・信繁一行はどのくらいの人数で九度山に入ったのだろうか。残されている記録によると昌幸は側室を、信繁は正妻と側室と娘3人を連れてきている。家臣は16名。家臣は通常家族同伴で、池田長門守や高梨内記などの上級家臣は家族の他に従者も連れていたと考えられる。さらに記録にはない家臣もいたと見られるので、諸説あるが少なくとも50~60人、多くて80~90人ほどだったと考えられる。通常、高野山に流罪になった場合、出家遁世せよと命じられているわけなので引き連れて行ける家臣はごくわずか。さらに高野山は女人禁制なので女性もNG。ゆえに、女性を含めてこれほど大勢の家臣を引き連れていった真田氏父子は流人の中では異例中の異例といえよう。さらに高野山は寒いからという理由で蓮華定院の世話でじきに九度山村に降りて暮らし始めたことや、九度山村は同じ高野山領だから高野山蟄居と同等とみなすと認められたことからも、いかに真田父子が優遇されていたかがわかる。このような措置は他の流人では考えられない。

 そして九度山村で暮らし始めてからも、真田父子は比較的自由に行動していたと考えられている。『信濃史料』、『真田信繁』(平山優著)によれば、高野山(おそらく蓮華定院)で昌幸と信之が面談していたという。先程も記したように、真田父子の蟄居場所として九度山と高野山は同等と徳川のお墨付きをもらっているわけなので、昌幸たちが九度山と高野山を行き来することは何の問題もなく、ある日蓮華定院で「参拝」しに来た信之と「偶然」会った体にすればいくらでも密会することができる。もちろん信之だけではなく、他の要人とも同じように密会していた可能性は高い。あの蓮華定院の上段の間(第11回【蓮華定院その1】上段の間参照)で。そういった「参拝者」からの情報に加え、時々家臣を国許に戻してもいるので、蟄居の身でありながら必要とする情報には全く困っていなかったと想定される。さらに、昌幸は和歌山城下の「中ノ店」(現在のぶらくり丁)の次郎右衛門という町人と親しくなってしばしば会いに行っていたり、紀の川の上下五町を「真田淵」と称して水練に使用していた(「先公実録」)ことからも、かなり自由な暮らしぶりだったことがうかがえる。

ADVERTISEMENT

 そもそも、家康が、自分から金を出させて作った上田城で2度も徳川軍を撃退し、関ヶ原の戦いでは石田軍に加担するなど、最後の最後まで家康に逆らった昌幸と信繁を死罪にしなかったことや、同じ配流にするのでも離島ではなく高野山にしたこともずいぶん甘い気がする。宇喜多秀家のように八丈島にでも流されたらどうすることもできない。

 その前に、関ヶ原の戦いの後、家康が昌幸、信繁親子の処分を死罪にすると命じた時、信之やその妻、岳父の本多忠勝が命懸けで昌幸・信繁の命乞いをしたとされ、そのシーンは『真田三代』でもドラマ「真田丸」でも劇的に描かれているが、『九度山町史』の編纂にも関わった地元の歴史家の岩倉哲夫氏によると、そもそも家康が昌幸、信繁親子を死罪に処すると言ったとされること自体があやしいという。その理由は、家康は本能寺の変で織田信長が倒れた後、武田の遺臣を雇い入れて南信濃と甲斐の国を労せずして領土にしていった。だから関ヶ原の戦いの後も、武田の元家臣の処分をさほど厳しくしなかった。そして真田家は元武田家の重臣。ゆえに真田父子は死罪にも島流しにも処せられることなく、九度山への流罪、しかも蟄居とは程遠い自由な生活をしていたというのだ。