●昌幸の死
数々の努力も虚しく、九度山に流されて11年目の慶長16年(1611)6月4日、昌幸は国許へ帰ることを許されず、また、再び戦場で知略の限りを尽くして戦う機会を得ることなく、65歳で病死した。いくら元武田家の家臣ということで優遇されていたとはいえ、家康の昌幸に対する恨みと畏れは相当深かったということだろう。
亡くなる直前に信之に送った書状には、九度山での不自由さや長年の流人生活で病気がちになり、床に臥せっている時間が多くなっていることなどが書かれている(『真田家文書』)。晩年は心身ともに弱りきっていた昌幸。その失意と絶望はいかばかりだったであろうか。ドラマ「真田丸」で描かれていたように、昌幸にとって強大な敵と戦い打ち負かすことや大名に復帰して真田氏を大きくする夢を奪われ、九度山でただ蟄居生活を送ることは死罪よりもつらい罰だったのかもしれない。
昌幸は武田氏の家臣時代は武田二十四将に数えられるほどの活躍を見せ、武田氏滅亡後は自立し、織田氏、北条氏、徳川氏、上杉氏などの名だたる大名との命懸けの交渉・戦を重ねた。その結果、豊臣政権下でようやく所領を安堵され、信州のいち国衆にすぎなかった真田を大名にまで成長させた。大名としての真田氏は信之の存在によって大きくなり江戸幕府が消滅するまで続くが、厳しい戦国時代に真田氏繁栄の礎を築いたのは間違いなく昌幸だ。にもかかわらず、その晩年はあまりにも寂しすぎる。昌幸ファンの筆者としては、同情を禁じ得ない。
昌幸の死後、その葬儀は九度山で身内や家臣のみでひっそりと行われた。蓮華定院の僧侶がお経を上げに来ている可能性も十分にあるだろう。流罪になったとはいえ、かつて全国にその名を轟かせた元大名の葬儀がなぜ密葬に近い形でしか行われなかったのだろうか。実は昌幸の訃報を受けた信之が徳川の重鎮・本多正信に「父の葬儀を執り行いたいのですがいかがでしょうか」とおうかがいを立てた手紙が残っている。しかし本多正信は「確かにお気の毒だが、天下にはばかる人(家康に逆らった人)だからやめておいた方がいい。弔うのは赦免になってからにするべきだ」と返答したため(『真田家文書』)、それに従い信之は断念したようだ。
密葬で昌幸の遺体は荼毘に付された後、遺骨は屋敷の敷地内に葬られ、信繁は父の供養のために宝篋印塔を建てたといわれている。昌幸に従って九度山に来た家臣のうち14名は一周忌を機に信濃に帰り、松代に移封された信之の家臣になった。その際、昌幸の遺骨は分骨され、昌幸の家臣・河野清右衛門によって真田郷の長谷寺に奉納されたと伝えられている。(※長谷寺に関しては「第3回【長谷寺/信綱寺】真田三代の墓参りへ」を参照)