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63年ぶりの国宝! 松江城天守の“特殊構造”を編み出した名将の築城術とは?

天守の“秘策”と城下の銘酒、出雲そばのルーツに迫る

2019/09/14

  祈祷札は、天守地階中央から1階の通し柱に打ちつけられていました。通し柱に残る釘の跡と祈祷札を打ちつけた位置が、ぴったりと合致しました。化学分析によって、錆から出た柱のシミと祈祷札の裏側に付着した錆も一致しています。現在はその柱に祈祷札のレプリカが展示されているので、ぜひ注目してみてください。

天守の地階。両脇の通し柱に祈祷札が打ちつけられていた

信長と秀吉に仕えた名将の築城術

 重要なのは、こうした天守が当時誰でもつくれたわけではない、ということです。豊臣秀吉のもとで実戦経験を積み、城づくりの技術を磨いた重臣の堀尾吉晴だからこそ、立派な天守が建つ見事な石垣の城が築けました。これが、松江城の最大の魅力でしょう。  

 吉晴は織田信長と秀吉に仕え、秀吉の家臣として天正10年(1582)の備中高松城攻めをはじめ天正15年(1587)の九州攻め、天正18年(1590)の小田原攻めと数々の武功を挙げてきた武将です。豊臣政権においては、中村一氏や生駒親正とともに要職を担い、もちろん、秀吉の城づくりにも携わってきました。慶長4年(1599)に子の忠氏に家督を譲りましたが、忠氏が急逝。跡を継いだ忠晴が幼少だったため、吉晴が後見人となり、実質的に城と城下町を整備して松江の礎を築きました。

二の丸の高石垣と、復元された南櫓・中櫓・太鼓櫓。二の丸と三の丸を結ぶ廊下門も復元されている
松江は城下町も風情がある。堀川めぐりも人気

全国でここだけにしかない恐ろしい迎撃の工夫も

 天守から付櫓に向けた「狭間」や「隠し石落とし」、天守地階の井戸の設置など、松江城天守に軍事的側面が強いのも、こうした築城の背景があるからです。徳川の世に変わったことで城づくりにも将軍家に対する配慮が見え隠れしますが、毛利輝元が関ヶ原合戦後に築いた萩城(山口県萩市)とそっくりな黒壁の天守から、秀吉政権の栄華と憂いを感じずにいられません。

付櫓内。「石打棚」という中2階のような射撃場が設けられている

 天守は四重五階地下一階の望楼型で、付櫓が付属する複合式。総床面積は約1700平方メートルと、現存する天守では姫路城に次いで2番目の規模を誇ります。近年、天守内の展示が撤去されてその広さを体感できるようになったのがとてもうれしい。天守内を見渡して、その広さを実感してみてください。外観は下見板の黒色や巨大な破風の存在感もあいまって、どっしりとしたかっこよさが魅力です。