歴史に対する修正をどう捉えるか
中路 もう一つ、「修正」という言葉の捉え方なのですが、歴史に対する修正というと、過去の過ちを否定する行為のように考えられがちですが、必ずしもそうではないと思います。
例えば、物理学の分野で相対性理論が出てきたときに、それまでは、ニュートン力学でものを考えていたわけですから、全く違うパラダイムになるわけです。ある面ではニュートン力学は否定されたと言えるけれども、しかしニュートン力学の価値が全くなくなったわけではないですよね。たとえば、鉄道の線路を敷くときの設計においては、列車は光速に近いスピードなどで走るわけではないですから、相対性理論を用いる必要はなく、ニュートン力学で考えればいいわけです。
歴史の面でいうなら、太平洋戦争の時代、日本国内の動きだけではなく、国際社会全体の動きに目を向け、その影響を考慮に入れようとすると「修正主義だ。ごまかしだ」と批判されることがあります。しかし、それは当時の日本の動きを、過ちも含め、新たなパラダイムに位置づけようとすることであって、そういう意味での「修正」は必要なものだろうと思っています。
小説における「大きなF」と「小さなf」
——小説とノンフィクションの大きな違いは、私は主人公を置けるか置けないかだと思っています。もちろん、ノンフィクションにも評伝という分野がありますが、資料の裏付けがない部分はどうしても空白になったり、他者の視点が入ったりしてしまう。小説は、一貫して主人公本位で書けるという部分が、うらやましくも思います。
中路 うらやましいですか(笑)。だけど、主人公をはじめとする登場人物がいる小説には、「視点」を限定されるという問題がありますからね。
夏目漱石の文学の講義録に、大文字の「F」と小文字の「f」の話がありましてね、大文字の「F」は、おそらくファクトで、小文字の「f」は、フィーリングだとされています。大きいFと小さいfを合わせたものが文学である、と言うのです。ですからやはり、出来事を人物がどういうふうに感じたかとか、その視点からどういうふうに見えたかを書いていくのが小説なのかもしれませんね。
——先ほども言いましたが、昭和天皇の発言に関しては、ありとあらゆる資料があるので、これは岡田啓介の回顧録を使っているとか、そんなことを思いながら拝読したんですけれど、そうすると逆にこれは使ってないとか、なぜこの資料を選んだのか、という部分が気になってきます。さまざまな取捨選択は、どういった基準でされたんでしょうか。
中路 一冊の本として、作品としての統一感を考えている面もありますね。「これこそが昭和天皇の考えに近いんじゃないか」と思って書いている部分もありますが、多くの場合、この小説作品の場合には、こちらの資料、こちらの説を使ったほうが上手くいく、ということで書いているんです。そこが小説の下品さだと思っています(笑)。