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小説と学問は、土俵が違うもの

——例えば田中義一を昭和天皇が叱責したところは、『昭和天皇独白録』の記述や、『牧野伸顕日記』の記述などを混ぜて会話文を作られているところもあった。それこそがまさに小説ならではの書き方ということでしょうか。

中路 そうですね。

——そのほかに、「小説ならでは」の部分はありますでしょうか。

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中路 たとえば、5話目の「地下鉄の切符」であれば、戦後の巡幸のときの天皇の内面については、論文ではやっぱり、あからさまには踏み込んではいけないところですよね。私の想像力で補って書いている部分です。もしくは資料だけを読んでも、意味が捉えづらいんじゃないかなと思うようなものに関しては、論旨がもうちょっとわかりやすくなるように、書き換えたり、書き足したりしていますね。

——その想像力の使い方で、作家には、学者よりも優位性があるとお考えでしょうか。作家ならではの想像力が、研究の細分化や方法論でがんじがらめになったアカデミズムの世界に、自由な連想などをもたらし、結果的に斬新な仮説を産み出す……といったようなこともありうるのではと思うのですが。

 

中路 私は少し考え方が違うんですよね。小説を学問的な地位に位置付けることに違和感を覚えるんです。例えばですが、司馬遼太郎さんの書いたものを評するときに、さかんに「司馬史観」という言葉が使われますが、私は司馬さんの仕事の価値は学問的な分析にあるのではなく、作家としての「語りの面白さ」だと思うんです。私は小説と学問は、土俵が違うものだと考えていますから、「小説の優位性」というのは、考えたことがないですね。

小説家は、いくら嘘をついてもかまわない

——かつては、近現代史の専門家は今日ほど多くなく、研究の細分化も行われていなかったので、作家、評論家、学者などが渾然一体になって、文章を書いていたところもあったと思うんです。読み手は、その中から面白いものを選んで読んでいた。ところが今は、専門家の数が増えており、「専門家以外が歴史を書く」ということに対して攻撃的になっている面があります。本が一冊出れば、「どこか間違いはないか?」とアラ探しをするようになっている。そういう状況については、どうお考えになりますか?

中路 私は、そんなに名前が売れてないってこともあって、批判は受けていないですねぇ(笑)。

——なるほど。

中路 ネット上で、「あいつはこの資料も読んでいない」と書かれることはありますが、そういったときに指摘された資料で、読んでいなかった資料は一つもないですね。読んでも捨てるということができるのが小説なんです。小説家は、いくら嘘をついてもかまわない。所詮、「ヤクザななりわい」だと思っていますから。

——そうしますと、読者のほうもそのことを分かったうえで……。

中路 そうですね。それをわかったうえで読んでいただければと思います。

写真=石川啓次/文藝春秋

昭和天皇の声

中路 啓太

文藝春秋

2019年8月8日 発売