令和の時代を迎え、『昭和天皇の声』という小説を上梓した作家の中路啓太さん。「今、昭和を描く意味」や「日本人にとって天皇はどういう存在なのか」というテーマについて中路さんはどのように捉えているのでしょうか。聞き手は、近現代史研究者の辻田真佐憲さんです。(全2回の2回目/#1へ)
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私は、合理主義を信用していないんです
——8月10日発売の月刊「文藝春秋」で、天皇についてのエッセイを書かれていますが、今の社会において、天皇という存在がどういった位置づけになっているとお考えですか。
中路 天皇とは、不合理であるがゆえに安定に寄与している存在ではないかなと私は思っています。
——不合理といいますと?
中路 私は、合理主義を信用していないんです。合理主義というのは、社会に激しい対立を生み出し、やがては独裁制に行き着くものだと思っています。これは表現が難しいですが、天皇家が「万世一系」として大切にされるというのは、憲法における平等の原則に反するかもしれないが、「万世一系の天皇」という存在があったからこそ、日本社会が安定してきたという面もあると思っているんです。
天皇と敬語とのかかわりの問題
——月刊「文藝春秋」のエッセイを拝読していると、天皇に対してしか使わないタイプの敬語を使われていますね。
中路 小説では、天皇に対して、地の文では敬語は使わないようにしてきました。作中の天皇は他の人物と同様、私の「創作物」「作り物」に過ぎないからです。しかも、その「作り物」を敬語をもって叙述すれば、あたかもそれだけで本物の天皇が立ち現れたような印象を読者に与えることができるわけですが、その方法で小説のリアリティを作ろうとすることは、書き手としてだらしがないと思います。ただ、このあいだのエッセイに関しては、どのくらい敬語を強く使おうか迷ったんです。エッセイの内容が、天皇と敬語とのかかわりの問題を含んでいましたからね。
——そうだったのですね。中路さんは、皇室に対する、いわゆる尊崇みたいな意識がおありなのかなと思ってお聞きしました。
中路 子どもの頃はそんな意識はなかったですし、大学生のころは、国の代表的存在は世襲ではなく、投票で選ぶという方法もあるのではないか、と考えたこともありました。ただ、今の世界を見ていて、「投票で選ばれた人は必ず立派なのか」といえば、そんなことはない。だとすれば、象徴的な人物が、形式的なものであっても、「下品でない言葉」を述べる方がいいのではないかと思っています。