コスパや効率を求める社会で、小説は読まれにくい
——最近の保守はちょっと別として、伝統的に保守派とされる評論家は、文学部の出身だったり、文芸評論をしていたりと、保守と文芸の関係は深いものがあったように思います。合理性とは違ったところに価値を置いているからではないかとも感じますが。
中路 なるほど。そうかもしれないですね。社会が、コストパフォーマンスや合理性、効率などを求めるようになってきたから、今は小説が読まれにくくなっているとも感じますね。
——俗っぽい言い方をしますと、「新自由主義」的な考え方でしょうか。すべてを数字に還元して、何年までに、これを達成して!というような。デジタル化により計算で予測可能なことが増えたからこそ、計算できない意味不明なものがはじき出されていっている、と。
中路 少し話が変わるかもしれませんが、教養主義的な考え方っていうのは、「この本を読むとすぐに成績が上がる」や、「読書自体が、すぐに何かの役に立つ」というものではないと思います。「役に立つ」というのは「量的拡大」にかかわっていて、ある尺度においては役に立つかもしれないですが、違う側面もあるかもしれないんです。例えば、スピードの速い高速鉄道を建設すれば、目的地に早く着けるという面では有益ですが、その過程で、公害などが発生するかもしれない。私は、役に立つために本を読むのではなく、そうではない読書、ということに意味があると思うんです。目先に効果はないかもしれないですが、長い人生の中で人間の幅を作ることにつながる。つまり、その人が壁に当たったときに、もしかしたら、素晴らしい発想が浮かぶかもしれない!というような。小説って、そういうものではないでしょうか。
若いころから本を読む習慣が必要
——なるほど。物語の話ともつながりますが、人間は、長く生きても80年から100年くらいですから、実証主義的に確実なことをいえることはほとんどなくて、大抵のことはよくわからないまま行動したり発言したりしなくてはならない。そういう不合理で不確実な世界を生きなければならないからこそ、効率主義ではない小説には逆説的に大きな意味や役割があるのだと、いますごく腑に落ちました。
中路 そうですか(笑)。有難うございます。たとえば、読書経験のあまりない人が管理職になって、人前で何かをしゃべるために本を読もうとするとします。そのとき手に取るのは「ビジネス書」などが多いと思うんです。こういった合理主義の塊の人には、小説はなかなか届かないでしょうね。若いころから本を読む習慣が必要だと思いますが、子育てをしている世代も読む人が減っていると言いますしね。どうしたらいいんでしょうね(笑)。