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連載昭和の35大事件

「戦車に火炎瓶とシャベルで挑む」たった1人の軍人・辻政信が推し進めた“ノモンハン事件”とは

ガダルカナル、インパールに続く最初の惨劇

2019/09/22
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「絶対悪」イギリス兵の人肉食の噂も出た、辻政信のその後

 辻政信は以前から石原莞爾に私淑。満州と関東軍に精通し、持ち前の積極的な性格もあいまって、発言力は関東軍内部でも大きかった。さらに彼を支えていたのは直属の上司である作戦主任参謀の服部卓四郎中佐で、こちらも陸士、陸大卒のエリート。本編にもある通り、このコンビはいったん閑職に追いやられたように見えて、2年後の太平洋戦争開戦時には参謀本部の中枢で強力な戦争指導を行う。特に辻は、太平洋戦争開戦直後のマレー半島からシンガポール進攻の電撃作戦で大成功を収め、「作戦の神様」などとうたわれる。一方で、シンガポール陥落後、華僑虐殺を命令したとされたり、イギリス兵の人肉食のうわさが出たり、悪い話題にも事欠かなかった。いまも「絶対悪」とする歴史家がいる。服部、辻のコンビはさらにガダルカナル戦で研究事例になるような拙劣な作戦指導を行い、再度閑職に追いやられる。

戦後の服部卓四郎 ©文藝春秋

 辻は敗戦時、大佐でタイ・バンコクに駐在していたが、行方をくらまし、東南アジアや中国、帰国してからは国内で潜伏生活を続けた。戦犯解除後の1950年、当時を回想した「潜行三千里」を出版してベストセラーに。1952年10月、衆議院石川1区から無所属で出馬して6万票余りを集め、トップ当選。当時の新聞記事を見ると、石原莞爾が設立した東亜連盟の肩書も使っている。やがて自民党入りするが、その後首相となる岸信介を批判して自民党を除名され、今度は参院議員として復活。そして1961年、東南アジア視察の名目で出国したまま消息不明となる。1968年7月、失踪宣告。

辻・服部だけでない、戦後も暗躍した“懲りない面々”

 足取りは長くナゾとされてきたが、1970年4月、ラオス・ビエンチャンの朝日・伴野朗特派員(のち作家)が送った「私は辻政信氏の通訳だった」という特ダネ記事が消息を伝えた。それによると、辻は旧知のホー・チ・ミン北ベトナム(当時)首相と面会するため、隣国ラオスに入国したが、パテト・ラオ(ラオスの共産勢力)に逮捕された。仏教僧侶の姿に変装していたことが疑われたという。他の証言からも、間もなく処刑された可能性が強いとされる。波乱万丈の人生だった。2018年8月放送のNHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」を単行本化した同名書では、辻の次男が父がいかに人間的であったかを力説している。地元石川ではいまも尊敬されているという。そういう面もあったのだろう。確かにこれまで、彼だけを帝国陸軍の諸悪の根源のように言いすぎた傾向があったかもしれない。それによって彼以外の責任がうやむやになったことは否定できない。

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辻政信の消息を伝えた朝日・伴野特派員の記事

 辻は戦後、政治家となったが、コンビだった服部卓四郎もGHQ(連合国軍総司令部)に取り入り、日本の再軍備研究のための「服部機関」を創設。警察予備隊(のちの自衛隊)発足に大きな貢献をする。一方で、1953年には、日本側の戦史の決定版とされた「大東亜戦争全史」をまとめている。しかし、その中ではノモンハン事件について、「当時、日本陸軍は対華(中国)長期戦態勢の整備中であって、約三十個師団に及ぶ極東ソ連軍に対し、日本の在満兵力はわずかに八師団であった」と戦力不足を吐露しただけだった。戦後も暗躍した旧軍人はほかにもいる。彼らが敗戦の責任をとることはなかった。“懲りない面々”といえるのかもしれない。

本編「ノモンハンの敗戦」を読む

【参考文献】
▽戸部良一ら「失敗の本質」 ダイヤモンド社 1984年
▽辻政信「ノモンハン」 原書房 1975年
▽島田俊彦「関東軍」 中公新書 1965年
▽田中日佐夫「日本の戦争画」 ぺりかん社 1985年
▽田中雄一「ノモンハン 責任なき戦い」 講談社現代新書 2019年

「戦車に火炎瓶とシャベルで挑む」たった1人の軍人・辻政信が推し進めた“ノモンハン事件”とは

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