「幕僚中、誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない」?
満州事変(1931年)と、その結果としての「満州国」建国(1932年)は関東軍にとって大きな成功事例だった。
その結果、関東軍はソ連や外蒙古と国境を接して向かい合うことになり、対ソ戦への危機感は一気に増した。「中央の政府・陸軍省・参謀本部の情勢判断が、ややもすればなまぬるいものと感じられるようになった。そして、その過剰なまでの責任意識、対ソ危機感が、満州国を築いた自信や実力と相まって、特に中央との対立関係を起させることになった」(島田俊彦「関東軍」)。「下克上」の条件はそろっていたといえる。
よく知られていることがある。最初に外蒙古軍が「越境」してきたとき、辻少佐は「幕僚中、誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない。目を皿のようにし、拡大鏡をもってハイラル南方、外蒙との境界付近で、ようやくノモンハンの地名を探し出した」(「ノモンハン」)。大事件を起こしておいて、にわかには信じがたい話だ。それにしても、名参謀は頭も切れるし筆も立つようだ。
「上に厚く下に薄い」階級社会の軍隊の暗部がもろに表れた戦争
本編では触れていないが、この事件では、戦争の苛烈さと軍隊の非情さ、人間の醜悪さが随所に顔をのぞかせている。ソ連軍の大量の戦車による攻撃に、日本軍は白兵戦で応戦するしかなかった。1939年7月11日付東京日日は「対戦車攻撃に火炎ビン作戦」という記事を載せた。「部隊長が後方へやってきて『サイダー壜を二十本ほど都合してくれ』と言うので『どうするのか』と聞くと、『サイダー壜にガソリンを詰めて敵戦車にたたきつけるんだ』と言う。戦車は日中焼けつくように過熱しているので、たちまち燃え上がり、戦車内の敵兵ははい出る暇もなく具合よく火葬になるそうだ」。
実際に当初は戦果があがったという証言もあるが、兵隊に犠牲を強いる攻撃がどれだけ通用したのだろうか。それ以上に、そうした反撃しかできない兵の苦衷はいかばかりだったか。
部隊長の多くは戦死し、生き残った者も責任を問われ、何人もが自決などをした。例えば、小松原師団長は、部隊が損耗し、食糧も弾薬もなくなって戦場を離れた井置少佐を「無断撤退した」と叱責。自決に追い込んだ。辻もある連隊長を「戦場でビールを飲んでいた」と告発。連隊長は「ビール瓶に入れた水だった」と弁明する騒ぎもあった。捕虜になった兵は送還後、処罰された。作戦に関与した高級軍人のほとんどは戦後、事件について沈黙を貫いた。完敗だっただけでなく、「上に厚く下に薄い」階級社会の軍隊の暗部がもろに表れた戦争といえる。事件自体が秘匿され、戦後になるまで実情は国民に知らされなかった。