事件の背景には複雑な国際情勢もあった。日本にはドイツ、イタリア、ソ連との4カ国協約構想があったが挫折。ソ連が持ち掛けた不侵略条約を拒否したことから、ソ連は不信感を強め、日本軍に打撃を与える機会を狙っていた。そして、ソ連が圧倒的な優勢の中で停戦協定に応じたのは、ヨーロッパの軍事情勢が切迫していたからだった。1939年9月1日、ドイツのポーランド進攻が始まり(第2次世界大戦の勃発)、ノモンハンの停戦協定が成立した翌日の9月17日、ドイツとの密約の下にソ連もポーランドに進駐した。
「ハエが群がり、ウジ虫のはい回る日本兵の屍が累々と……」
ノモンハン事件にはもう1つ、秘話がある。現在国立近代美術館にアメリカから「無期限貸与」されている絵画の中に、藤田嗣治の「哈爾哈(ハルハ)河岬之戦闘」がある。縦約1.5m、横4.5mの大作。広大な草原の中、破壊されたソ連軍戦車の内部に銃剣を突き刺している日本兵たちを描いている。
田中日佐夫「日本の戦争画」によると、この絵は本編にも登場する第六軍司令官・荻洲立兵中将の依頼で描かれたという。荻洲中将も、苦戦が続いている中、「小松原師団長の死を希望する」趣旨の発言をして辻少佐にとがめられるなど、問題のある人物だった。
「この年(1940年)の九月、藤田は荻須(洲)立兵という予備役中将の訪問を受けて、中将が戦い破れたノモンハン事件の戦の絵を、部下の冥福のために描いてほしいと依頼された。藤田は引き受け、藤田邸に差し向けられた兵士たちを写生し、戦車や飛行機の写生に出かけ、さらに満州にまで足をのばして、満州の大平原をその目で確かめたという」(同書)。
さらに奇妙なのは、ノモンハンを描いた藤田の絵はもう1枚あったということ。1941年の初め、藤田のアトリエで「哈爾哈(ハルハ)河岬之戦闘」が公開された。ある美術誌の編集者が遅れて訪れると、藤田が「実はもう1点、見てもらいたいものがある。絶対の秘密」と言ってカーテンを引くと、全く同じ大きさの絵があった。
「ハエが群がり、ウジ虫のはい回る日本兵の屍が累々と横たわり、その上をソ連軍の戦車が冷酷無残に踏みにじっている情景があった」(同書)。藤田は「これがほんとの戦争なんだよ」と言ったという。この話にはほかにも証言者がいる。その絵は戦災で焼けたといわれる。