出発点は九大法学部の学生時に立ち上げた夜間託児所
天久さんは、45年前からこの地で夜間の保育に携わってきた。
九州大学法学部の学生だった昭和48年、保育士をしていた恋人とふたり、ホステスの子どもを預かる夜間託児所を始めたのが出発点だ。
高級クラブやダンスホール、キャバレーで働く女性たちは、子どもを抱いて家族から逃げてきた人、家庭の借金を背負って働く人など、事情を抱えていた。そんな女性たちを雇用するキャバレーの中には託児所完備を売り文句にする店もあったほどだ。子どもをモノ扱いするキャバレー付託児所の保育に不安を覚えた母親たちは、続々と天久さんの託児所に移ってきた。
昼間の仕事で女性が「一人前」に稼げる職業はごく限られたものだった。やむなく「水商売」に身を投じた母親たちは、施設に子どもを預けずに一緒に暮らしたいと願い、からだを張って酒を飲んで売り上げを稼ぎ、フラフラになって夜中に迎えにきた。7割が単親家庭だった。もちろん、ひとりで子どもを育てる父もいた。
夜の親たちの懸命さに打たれ、自ずと保育に力が入った。
「昼の子どもに負けんごと(負けないように)」を合言葉に、質のよい保育やバランスのとれた食事を実現しようと、保育料を公立保育園の最も納税額の高い家庭向けの保育料より2倍近い高額に設定。アルバイトの大学生や近所の主婦に頼っていた保育や給食づくりを、全員保育士の資格者に入れ替え、栄養士を採用した。
保育料の値上げが理由で退園した家庭はなかったが、認可保育園の保育に比べると、保育料は2倍近いのに環境も保育の質も半分、という現実に、天久さんは悩んだ。
そのころ福岡市では、保育園用地を福岡市が提供して建物を社会福祉法人が自前で建てる半官半民の手法が積極的に取り入れられ、そのおかげで慢性的な保育園不足を脱出しつつあった。当時は画期的だったこの手法は「福岡方式」と呼ばれ、全国の自治体が注目した。天久さんは、「福岡方式」の公募に応募して、まずは昼間の認可保育園を開園し、徐々に保育時間を延ばしていくことにした。
こうして天久さんの夜間託児所は、8年をかけて昼間の認可保育園に転じ、折から制度化された夜間保育園を併設することになった。
それが、現在まで続く「どろんこ保育園」である。