楽屋で先輩が若手にダメ出しを……
「観る将」になって、約4年になります。で、対局の中継を見たり、弱いなりに自分でも指しているうちに、アナロジーというんですか、「将棋」と「お笑い」って似てるなあ、と思うことが時々あります。
楽屋で新喜劇の若手座員がネタを打ち合わせている。それを聞いた先輩座員が、こんなダメ出しをしていました。
「最後、そうやってオトしたいんやったら、途中で○○って言わんほうがええで。それ言った時点で客にオチがバレるから」
なるほど。じゃあ○○という言葉を削ればいいんだな。
でも、削ってうまくいくパターンもあれば、逆のパターンもあって。
「最後そうやってオトしたいんやったら、最初に××って言うたほうがええで。そうじゃないとフリが弱いわ」
言ったらダメな言葉があったり、言わなあかん言葉があったり、お笑いの台本もなかなかにデリケート。この辺り、端の歩を一つ突いているかどうかで勝敗が変わってくる将棋に似てるなあ、と思うのです。
ごちゃごちゃした中終盤を、どうにかしてまとめる
「棋は対話なり」という言葉があります。将棋は棋士と棋士の対話である、という意味ですね。その対話の記録、先手と後手の指し手を交互に記録した棋譜は、AとBのセリフを交互に書いた漫才台本にも似ています。
あるいは、一局の将棋を振り返って、解説の先生がこんな言い方をされるときがあります。
「勝った○○九段は、難しい将棋をよくまとめましたね」
この「まとめた」という言い方にも感じます、アナロジー。
新喜劇の台本も、事件や登場人物が多いと、書いているうちに、とっ散らかって空中分解しそうになる。それをなんとか終幕までこぎつけたときは、思います。
「難しい台本を、よくまとめたな、俺」
ごちゃごちゃした中終盤を、どうにかしてまとめるものなんですね、将棋指しも台本書きも。
また近年では、AIとの関わりが強まったという点でも、将棋とお笑いは共通しています。
10年ほど前は、まだ人間に分があった将棋ソフトと人間の勝負も、その後、数度行われた電王戦の結果が示す通り、今や棋力では完全にソフトが人間を凌駕しています。