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映画や小説の感想までネットで検索してから語る人がすごく増えてきた。

――「コンテクスト」、つまり文脈というものについては後半になって重要な意味を持ってくる。先ほどもおっしゃっていましたが、空気を読む、文脈を読む、という風潮への強烈な皮肉がありますよね。

羽田 たとえば日本の、それこそM-1グランプリの濃いお笑いなどと海外のスラップスティックコメディーを比べると、絶対に日本のお笑いの情報量のほうが多いんです。だから日本人から見たら、海外のお笑いは大雑把すぎてレベルが低く見えてしまうんです。じゃあなんで日本のお笑いのほうが繊細で濃く見えるのかというと、そこに阿吽の呼吸で伝わるものがあるからでしょう。多くの人が日本語しか使わない日本の中で何かやろうとすると、阿吽の呼吸でなんでも伝わるので、情報量の高い種類のお笑いが作られていく。実生活でも、それぞれ同じ年代、同じ業種の人たちが自分たちだけに伝わるような話し言葉で会話していたりしますよね。それは確かにコミュニケーションが効率的にできるし結束を高めるにはいいけれども、そのコミュニティーの外にいる人には何も伝わらない。排他的になる危険性をはらんでいるんです。だから、阿吽の呼吸で伝わってしまうものに対して、何か疑ったほうがいいんじゃないかと思うんです。自分だってこんな日本語の純文学というドメスティックな世界でやっていて、それを捨てろというのは難しいですけれど。でも、それに対して自覚的でなければまずいなと思います。

――『メタモルフォシス』(14年刊/のち新潮文庫)で著者インタビューした時に、「次は内輪文化の排他性について書きます」っておっしゃっていたのは、この作品のことだったんですね。

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メタモルフォシス (新潮文庫)

羽田 圭介(著)

新潮社
2015年10月28日 発売

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羽田 そうですね、これのことですね。

――作中に、映画を観たらすぐネットで感想を検索して、人の感想を読んで分かった気になっている人物も出てきますよね。映画の感想でさえ、人と共通した意識を持つことに安心するタイプ。

羽田 はい。瀧井さんのことではないですけれど、こういうインタビューを受ける時、僕がデビューした2003年と最近ではなんか違うと感じるんですよ。最近会う若いインタビュアーの人って、ネットに載っていたり、パッケージに書いてあるようなことをそのまま言っているだけの人がいるんです。

――まさに同じ感想を抱いた、っていうことかもしれませんよ? 私もそういうことがあるので今のは耳が痛い(笑)。

羽田 いえ、たとえば、今までそんな感想はなかったのに、評論家の人が何かの媒体でわりと珍しいフレーズを使った書評を書いたら、それ以降の取材ではみんなその言葉を使うようになっていたりするんです。それって自分の感想じゃないんじゃないか、っていう。別の人がそんな珍しい単語使って同じような感想言うわけないのに、って思うことがあるんです。僕がデビューした高校時代から比べて、今はそういう人がすごく増えたと感じます。

――作中にもあるように、「みんな間違いたくない」のかもしれません。でも著者は見抜いているわけですね。さて、後半の展開はゾンビもののお約束を踏まえつつというのは分かりますが、エンディングは最初から決めていたんでしょうか。あれは笑いましたが(笑)。

羽田 また内輪ネタに戻しました(笑)。実はその後も構想していたんです。でも小説って、書き始めた頃は無限の可能性がありますけれども、書いていたらだんだん納まるべきところに納まっていくんです。だんだん作者も読者も、こういう展開ならありえるな、と見えてくると思うんですよ。なので、その後まで詳しく書く必要はないのかなと思いました。それで、あの部分で終わりにしました。