フランスではそぐわないと周囲から反対されたこと
――フランスの現場へ持ち込まれた、是枝監督の「流儀」についてお伺いしたいと思います。ヒエラルキーが明快なフランスではそぐわないと周囲から反対されながらも、是枝組特有の若手ポジション「監督助手」をこれまで通り置かれたのは、なぜですか?
是枝 監督助手というポジションの目的は、2つあります。1つは、次の世代の監督を育てるということ。撮影のクランクインからクランクアップまで、現場を渡り歩くスタイルで助監督の場数を踏んでいるだけだと、なかなか監督になれない。というか日本でもそうなんですが、特にフランスでは、助監督とはプロフェッショナルな職業なんですね。監督になるためのステップとして捉えられていない。それぞれに必要なスキルとは、ちょっとズレているんです。
僕はテレビからスタートしたこともあって、ディレクターとADの一体感が強いテレビの方法を映画の現場に取り入れたほうが、将来監督になるんだったら勉強になるだろうと。
――つまり監督助手は、監督が毎日、何をして何を考えているか横で見ながら、同じ目線で考えていく。
是枝 そうそう。映画なんて、現場が終わったところで半分ですから。
――そうですね、編集作業がそこから。
是枝 監督になるんだったら、すべての現場にいてもらわないと意味がないんじゃないかなと思う。僕は編集作業だけじゃなくて、広告展開も含めて、自分の作品がどういうかたちで公開されるのか、携わることができないのはおかしいとずっと思っていたんです。もちろん監督の中にも「現場がすべてだから、あとよろしくね」と言うような監督もいる。それはそれでひとつのあり方だけど、僕や岩井俊二さんくらいの世代から、監督自身も積極的に携わるようになったんじゃないかと思います。
――是枝監督にとって、何かきっかけはあったのでしょうか。
是枝 デビュー作『幻の光』(1995)で衣装を依頼した北村道子さんに会いに行った時、衣装の話ではなく、いかに日本映画が遅れているかという話をされて……。特に広告美術。ポスターとかですね。広告についてはまだ何も決まっていない状況で、と話したらその場で北村さんが紙に名前を書いた葛西薫さんと藤井保さんに電話をかけて、2人が入ってくれました。まだ配給も決まってないインディペンデント映画の宣伝を頼めるわけがないと思ったんだけど、北村さんが「私のやる映画があるんだけど、手伝って」と言ってくれて(笑)。
――そうなんですね、すごい。
是枝 こうしてポスターやデザインにかかわるプロセスで、いかに広告美術が大事かということを学びました。それで現場のスチールマンとして、いわゆる日本映画業界の人ではなくて僕が好きな写真家、たとえば川内倫子さんや若木信吾さんなどに入ってもらうようになった。そこも含めて、頭から終わりまで継続して、現場だけじゃないかたちでかかわる監督助手が必要だと思ったわけです。
2作目の『ワンダフルライフ』(1998)からは、当時大学生だった西川美和さんに企画立ち上げからリサーチ、撮影、編集、仕上げまでのひととおりを僕のそばで経験してもらいました。この時彼女のポジションは助監督で、しばらくはそのラインの中でやってもらっていたんだけど、システム的に変えていこうと思って、『歩いても 歩いても』(2008)から監督助手という肩書きを作って、砂田麻美さんに入ってもらいました。