昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「死に方は自分で選べるべきか」で問われる安楽死の課題

簡単に「ジジイ早く死ねよ」と言うけれど

2019/10/04

どうして喧嘩ばかりするんだ山本家

 ところが、先日倒れた親戚が退院になり老健に厄介になるというので身の回りの物をもって車で見舞いに行ってきたのですが、相部屋になっている他の老人たちと初日から派手に口喧嘩をしているんです。どうして喧嘩ばかりするんだ山本家。

 騒ぎたいなら家の中でやれと言いたい気持ちをグッと堪えて先方の老人たちに謝ったりしたところ、その老人たちも反応が様々です。心底腹を立てて二度と口を利かないという爺さんもいれば、賑やかな人が来たのだから私は構いませんよと微笑む婆さんもいる。当たり前のことですけど、単に「具合の悪い老人たち」とひとくくりには絶対にできないほど、異なる人格、違う人生を長年歩んできた人たちだということは分かります。

©iStock.com

 私の親も含めていろんな施設に行き、たくさんの老人と会って話すと、あるところまでは、俺は100歳まで生きていくんだと言っていた人が、健康を損ねて闘病の世界に入ると途端に心が折れたり、愛する息子や娘が全然見舞いに来てくれなくて孤独を強く感じるようになると、いつしか希望は失われ、赤の他人である私にさえ「俺はいつ死ねるのかね」と尋ねてきたりする。答えづらいわ、そんなもの。まさかそこで「いますぐその窓から飛び降りろ」とワタミ流の返答をするわけにもいきませんから「そんなこと言わないでくださいよ。いつまでもご健勝であってください」とは言います。

 本人がその気であれば、長生きしてほしいと思うんですよ。でも闘病や孤独になるほど、この命は惜しくないと思ってしまう部分はあるかもしれない。冒頭の障害者団体の抗議も、つまりは「誰かに迷惑をかけてまで生きたくない」という『迷惑文化』の果てにある悩みなのだとするならば、確かに安楽死の議論が寄り添うべき先はこういう感情かもしれません。

長生きが財政問題の悪玉とされてしまう

 そういう先の見えている人が、健康を害して不自由になっているところに希望はあるのだろうか、何かしてやれることはあるのだろうかと、毎日のように思います。正直、死んでいくしかないんだもの。誰かの子であり、誰かの父や母であり、誰かの妻か夫かであった人が、塵となり地に返り星の一部に戻っていく瞬間まで、やはり元気であってほしいと願うのは人情でもあります。

 だからこそ、命は選ぶべきではないと思う。選ぶ権利は、他人には本来ないのです。それがたとえ、親であっても。

 私は中絶には反対ですが、まだ生まれていない子どもを中絶することが許されていて、生きる希望を失った高齢者が自ら死ぬ自由は許されないというのはよく分からない。等しく命あるものは与えられた命を最後まで生きられるようにするべきだ、それが神から精神という恵みを与えられた生物の使命なのだ、と私なんかは思います。

©iStock.com