「八ツ切り」「こまぎり」「バラバラ」
当時の新聞がこの事件を天下の一大怪奇として、朝刊、夕刊と追っかけて報道し、日本中の読者が怪奇小説以上の好奇心をもって、つぎの報道を待ったのは連載小説の比ではなかった。警視庁の記者倶楽部には朝日、東日(今の毎日)、報知、国民、時事、読売、中外(今の日経)みやこ、万朝報、やまとなど各社の記者が詰めきっていた。今も繁栄している新聞もあり、統合、改題、没落、と顧みて新聞界の興亡もその戦の激しさに感深いものがある。政治部記者がペンギン鳥のように乙につんとすましているのに対して、ここの記者達は、赤ダネ記者を喜びとし、ハンチングを横っちょにかぶって飛び廻る。刑事を相手に、隠語で話のやりとりが出来るようにならなければ、刑事に馬鹿にされて変死人一つの小種さえもとれない。だから、大学を出た若い記者が警視庁に廻されると、口惜しさに泣いたものである。だが、この赤ダネ記者達は、みんなよくシャレがわかり、ユーモアがあって、雑然たる記者倶楽部は明るかった。昨今の新聞を見て、しみじみ思うことは、記事にも見出しにも、シャレや、ユーモアが少なくなったことだ。昔は赤ダネ記者が随分流行語をつくり、見出しがそのまま、映画の題名になった。
話がちょっと横道にそれたようですが、この事件に関係があるので、当時の赤ダネ記者気質をちょっと披露した次第です。事件が起ると各新聞とも、毎日の紙面がこの話で持ちきりであったことは前述の通りである。ところで、この事件を「バラバラ事件」とつけたのは確か朝日であった。毎日が「八ツ切り」それから、どこかの社か「こまぎれ」事件とした。この3つの中では、朝日のバラバラがいかにも残忍な殺人事件の扱いに、一脈のユーモラスを感じさせ、筆者なども、してやられたと地団駄踏んだものである。果せる哉、後世まで、玉の井殺人事件と云えば、「ああ、あのバラバラ事件だね」と人口に“かいしゃ”するに至った。
捜査は難航、そして捜査本部解散
さて、事件は、死体発見の3月7日以来、寺島署に捜査本部をおいて大がかりな捕物陣を展開したが、犯人はもとより、被害者の身許さえも、さっぱり見当がつかず、捜査課長もすっかり疲れて、頰がげっそり。毎日本部を出る刑事の靴音も重く鈍ってゆく。
4月28日――発見の日から数えて53日目。浦川署長は寺島署2階の会議室に捜査関係者を集め、捜査本部解散の悲痛な挨拶をした。これで、さしも、騒いだ怪奇事件も迷宮に持込まれるのか――人々の関心も日が経つに連れ、記憶から薄れて行った。世間では、次ぎから次ぎへ目新しい事件が湧き起っている。社会はいつまでも、おはぐろどぶのように沈滞してはいない。