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連載昭和の35大事件

「押し入れの中で骨を鋸で挽き……」残虐すぎる解体殺人を後押しした“背筋が凍る舌打ち”

「この足が母を蹴ったのだッ。そして妹の子を殺したのだ」

2019/10/20

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

子どもを殺して舌打ちした竜太郎に「このままでは一家皆殺し」

 竜太郎の健康もよくなって、汐留駅の駅夫になったが怠け者で永続きがせず、魚屋をはじめると云うので、道具を買ってやったが、これも三日坊主で駄目。温順そうに見えた性質がだんだん本性を現して兇暴となり、狭い家の中で険しい眸の対立、喧嘩口論の絶えない日がつづいた。竜太郎は市太郎の家に引取られてから1年の間に、生活費として家に入れたのは、たった3円50銭きりであった。とみ子の産んだ清を邪魔物扱いにして、虐待し、逆さに吊して、ふり廻すような仕打ちさえあって、清は遂に衰弱して死んだ。こんなことから、とみ子は竜太郎をひどく怨み憎むようになった。

 昭和7年2月13日午後3時頃、とみ子が仏壇に手を合せて南無阿弥陀仏を唱えていると、竜太郎がその姿を見て、舌うちをして凄い形相になった。その凄い形相に市太郎は、背筋にぞっと冷めたいものを感じ、このままでゆくと一家皆殺しにされるのでないかと思った。

 そこで、傍の火鉢の中にあった裁縫用のコテを握って、不意に竜太郎の頭を力まかせに一撃した。竜太郎はうーんと唸って悶絶した。母親ふみは、この喧嘩を見るのが嫌で菊子ととみ子を連れて外出した。その後で市太郎は死体を大風呂敷に包み台所の揚板の下に隠し、畳についた血は灰で拭きとった。夜11時すぎ母親ふみ達が帰ってきた。母親には「竜太郎とは話をつけて国へ帰した」と云い竜太郎の娘菊子には「お父さんはすぐ戻るよ」と云った。それから、2月20日まで1週間死体をそのままにしておき、20日朝家人を外出させ死体を引きずり出して押入れの中で骨を鋸で挽き八つ切のバラバラに始末した。翌21日にも家人を外出させ、胸と腹、腰と云うように処置してすっかり包装をすませ、台所の揚板の下に隙した。

 3月6日午後9時、首と胴の上、下体を風呂敷に包み、本郷本富士警察署近くの伝承院前から50銭の約束で円タクに乗り玉の井に行っておはぐろどぶに捨てた。3月10日に残りの部分を帝大内工学部船舶科教室新館北側にある旧土本科教室2階の旧測量実験室の1尺4方のアゲ蓋の中に隠した。

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「この足が母を蹴ったのだッ。そして妹の子を殺したのだ」

 以上、第1回陳述では、犯人はすべて市太郎1人となっている。ところが、第2回以後の陳述では、市太郎がスパナで一撃し、弟長太郎がバットで乱打、とみ子は表で見張りをしていた。犯行に使用の兇器は長太郎が帝大から運んできたことに変った。検事は市太郎、長太郎を殺人、死体損壊、遺棄罪、妹とみ子を死体損壊、死体遺棄罪で起訴し、公判もこの罪名で開かれた。云うまでもなく、とみ子は死体を兄市太郎と2人でおはぐろどぶに捨てに行ったのである。

 犯行の動機、殺害方法、処置などにも、陳述の都度、いろいろ変化し紆余曲折がある。例えば、殺害の場面でも、芝居がかりに、電灯料の滞納から電灯がとめられていたので、ろうそくの灯の炎が揺れる中で、市太郎が復讐の怒りに狂い、眼を怒らせて、死体をバラバラにする作業をつづけ、手を鋸で挽きながら「この手が俺を殴ったのだッ」「この足が母を蹴ったのだッ。そして妹の子を殺したのだ」と憤怒のほむらに燃えたち、惨忍な兇行も、少しも恐ろしいとは、思わなかったとも語っている。

 竜太郎を殺した動機は、もちろん、こうした憤怒の爆発にもあったが、一面、竜太郎が郷里秋田の素封家だが事情があって今は落魄していると云うような物語をしたので、世話をしておいて、竜太郎の財産を奪おうとしたのが、郷里を調べた結果、竜太郎のつくり話で田舎には財産の全くないことが判ったこと、また、とみ子が銀座のカフェーで働く前、玉の井の銘酒屋の酌婦をしていたこともあり、行く行くは竜太郎を殺して菊子を売るつもりであったかも知れないとも云われている。

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