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連載昭和の35大事件

2019/10/13

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, 国際, メディア

「いろいろな人から本名、経歴を聞いたが特に秘したい」

 事件の主犯格だった大塚有章は河上の妻秀子の弟。秀子も大塚らに支援の金を運んだほか、河上の二女芳子は、奪った金を国鉄大森駅で移し替えた車にウエディングドレス姿で乗り込んでいたという。同乗していた大塚はモーニング姿で、非常線を突破するための変装だった。芳子も同乗の友人女性(元京都市長の娘)と共に実刑判決を受けた。さらに、大塚は河上が地下に潜るに当たってアジト探しに尽力。連絡などのため、頻繁にアジトに姿を現していた。大塚は逮捕後、特高にアジトを漏らし、「それが最善と思った」とした手紙を河上に書いた。特高刑事からその手紙を渡された河上はその場で検挙された。

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 この事件の裁判では、松村の部下だった久喜勝一が党の家屋資金局長として事件の主謀者とされ、逮捕されたメンバーの中で最も重い懲役15年の実刑判決を受けた。一方で、本編の筆者が「いろいろな人から本名、経歴を聞いたが特に秘したい」とした「松村」は、その部下とみられる「百瀬」とともに、判決文に名前が登場するものの、被疑者としては一切登場しなかった。

歴史の舞台から消え去ったスパイ“M”

 大塚は戦後の手記「未完の旅路」で「中央特別資金局財政部長で中央委員のM=松村」とし、逮捕されて警察に情報を提供して仲間を裏切ったと非難したが、以前からスパイだったことについては半信半疑だった。「松村はモスコーに派遣される前からのスパイで、十年以上も党内で挑発の機会を狙っていたのだというのである。私はこの説を肯定する材料は一つも持たないが、否定する材料はたくさんに持っている。いくら非常時下の党で、監督、検査が困難であったにしろ、警戒心は旺盛だったのだから、そんな悪質のスパイを中央委員会が長い間抱えていたとは想像できない。彼らは、逮捕されたとき、寝返ったのである」

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 しかし、「昭和の35大事件」の別の「『武装メーデー』事件」の回で、日本共産党の活動家でのちに除名される神山茂夫は、「松村」のことを「(共産党の)国際・組織・軍事の各部長を歴任し、家屋資金局長だったフヨドロフあるいはM【エム】こと松村(本名は飯塚盈延という現役憲兵将校)」と書いた。それを受けて作家・松本清張は「昭和史発掘 第5」の「スパイ“M”の謀略」で詳しく追及している。松村昇。本名飯塚盈延。1925年ごろ、東京東部合同労組のメンバーとなり、渡辺政之輔(のち日本共産党中央委員長、台湾でピストル自殺)に認められて2年余り、モスクワの「東洋勤労者共産主義大学」(共産大学とも呼ばれた)に派遣された。帰国後、共産党の国際部長、組織部長、財政部長などを歴任。内部での大きな力を持っていた。現役の憲兵将校だったという説もある。戦争末期、符合する経歴を語る憲兵少佐と懇談したという証言もあるが、確証はない。敗戦を機にその姿は永久に歴史の舞台から消えた。

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