1ページ目から読む
4/4ページ目

「ギャングと共産党と結局同じもの」

 風間丈吉委員長や中央委員ら当時の党幹部が、ギャング事件の計画を知っていたと考えるのは難しい。しかし、影響は大きかった。橋川文三は「日本の百年7アジア解放の夢」で、「このいわゆる『赤色ギャング事件』は、党内外に大きな衝撃を与えた。新聞は共産党=ギャングのマイナス・シンボルをまきちらした」と書き、10月11日付東京朝日夕刊1面下の「今日の問題」というコラム記事を紹介している。それは「和製ギャング全部捕縛。幸い、ギャングは本場に及ばぬが、警察は彼を圧倒していることをたたえよう。ギャングと共産党と結局同じものということが分かる」という内容だった。「共産党はただちにギャング事件との無関係を声明し、関係者のうち百瀬幸夫、久喜勝一の二人を挑発者として除名した。しかし非合法共産党のそのような処置は、一般民衆の目には触れず、『殺人・強盗・詐欺・美人局(つつもたせ)』の集団という党への不信感と恐怖感は広く広がり、獄中にある共産主義者に『転向』の有力な口実を与えた」(「アジア解放の夢」) 

河上肇「獄中独語」を報じた東京朝日新聞

 結局、河上肇は検挙後の1933年7月、「一切の実際運動と絶縁する」という「獄中独語」を執筆。それは検事によって7月7日付朝刊で大々的に報じられた。そこで河上は「私は実際運動とは――合法的のものたると非合法的のものたるとを問わず――全く関係を絶ち、元の書斎に隠居するであろう。これが現在の私の決意である」と述べている。一方で、「私は依然としてマルクス主義を信奉する学者の一人としてとどまるものである」として、それ以前の佐野学、鍋山貞親らの転向とは性格を異にしていた。しかし、世間一般に与えた影響はやはり大きかったといえるだろう。以後、河上は「閉戸閑人」と自称して世間に出ず、敗戦から間もなく亡くなった。

本編「ギャング共産党事件」を読む

ADVERTISEMENT

【参考文献】
▽警視庁史編さん委員会編集発行「警視庁史 [第3] 昭和前編」 1962年
▽日本共産党中央委員会出版局「日本共産党の八十年1922~2002」 2003年
▽日本近現代史辞典編集委員会「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽河上肇「自叙伝」=「河上肇全集続6」 岩波書店 1985年所収
▽大塚有章「未完の旅路」 三一書房 1960年
▽松本清張「スパイ“M”の謀略」=「昭和史発掘 第5」 文藝春秋 1967年所収
▽橋川文三「日本の百年7アジア解放の夢」 筑摩書房 1978年