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「吉展ちゃん事件」のころ、クレーマー、炎上、電凸の時代は既に始まっていた

浅羽通明が『罪の轍』(奥田英朗 著)を読む

2019/10/27
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『罪の轍』(奥田英朗 著)

 昭和といっても長うござんす。映画「ALWAYS三丁目の夕日」のヒット以来、昭和といえば三、四十年代、いわゆる高度成長期のことだ。

 奥田英朗が本腰いれた長編には、そんな「昭和」の空気が色濃く漂う。彼の名を高からしめた『最悪』、『邪魔』、『無理』も、平成の郊外や地方都市を舞台に、ふとしたきっかけで転落してゆく男女を描き、成熟社会も板子三寸下は依然、あか抜けない「昭和」なのだと感じさせた。

「格差」、「貧困」、「ブラック企業」といった言葉が、世に浮上したのはその数年後だ。

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 だが、卑小にして懸命な昭和的男女を、奥田の筆力で真に躍動させるなら、舞台もまた昭和のど真ん中がふさわしい。十年前刊行の『オリンピックの身代金』は正にそれだった。

『罪の轍』は、それに続く奥田昭和譚の第二弾である。

『オリンピックの身代金』では、架空のテロリストが暗躍したが、新刊は五輪前夜の営利誘拐殺人「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」を七割がた忠実に追ってゆく。

 犯罪者も刑事も、呆れるほど初心者だった頃。高リスクの営利誘拐で、なぜか身代金五十万円しか要求しない犯人。警視庁は電話が逆探知出来ない。受渡し場所では凡ミスで犯人を取り逃がす。加えて身代金の紙幣番号も控え忘れていた。監視カメラが浸透した令和と比べたら、昭和はやはり遠い。

 だがそこにはネット社会の予兆もすでに窺える。身代金を要求する犯人の声をテレビ等で全国に流した公開捜査は、この吉展ちゃん事件が本邦初。すなわち初の劇場型犯罪であると、作家は朝日新聞で語る。

 果せるかな警察や被害者宅には、情報提供や励ましのみならず、いたずらやいわれなき誹謗中傷の電話が殺到した。個人間通信が、手紙と電報から電話へと移行する転形期。「そうなれば発信者が特定されず、誰でも匿名で物を言うことが出来る」「大変な世の中になるな」と刑事は「途方に暮れる」。

 クレーマー、炎上、電凸の時代は既に始まっていた。

 ノンフィクションの名作『誘拐』(本田靖春)がすでにある吉展ちゃん事件。それを意識してか奥田英朗は、刮目すべき創作を幾つか加えてみせた。

 なかでも、小説の犯人を今でいう解離性健忘症だとしたのは興味深い。その原因は、幼少期、義父に当たり屋をさせられたトラウマだった。残虐な幼児誘拐の犯人を、奥田は過酷な児童虐待の犠牲者としたのだ。貧しき昭和、金欲しさで車道へわが子を放り出す親。これと苛立ちや焦りを幼児へぶつけて死へ到らしめた令和の虐待親とさてどちらが酷いか。ここにこの小説の隠し味が潜む。

 幾つかの創作部分が伏線を織りなし、物語は終盤、史実を離れ炸裂する。読者に最後まで気をぬかせぬ社会派エンターテナーの面目躍如。五百八十七頁が短こうござんす。

おくだひでお/1959年、岐阜県生まれ。97年『ウランバーナの森』でデビュー。2002年『邪魔』で大藪春彦賞、04年『空中ブランコ』で直木賞、07年『家日和』で柴田錬三郎賞、09年『オリンピックの身代金』で吉川英治文学賞を受賞。その他著書多数。

あさばみちあき/1959年、神奈川県生まれ。評論家。『昭和三十年代主義』『「君たちはどう生きるか」集中講義』など著書多数。

罪の轍

奥田 英朗

新潮社

2019年8月20日 発売

「吉展ちゃん事件」のころ、クレーマー、炎上、電凸の時代は既に始まっていた

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