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ヤフーはこうして読売、日経、朝日の包囲網を破った

分水嶺となった2000年代半ば「あらたにす」の戦い

2019/10/25

 ヤフーは読売新聞や毎日新聞などニュースを提供している各社に情報提供料を支払っていたが、売上を急伸させるヤフーに対して、新聞社が連合してポータルサイトをつくることができれば、その収入を本来のニュースの作り手である新聞社が確保することができると山口は考えたのだった。

 このようにして読売の山口が起点となり、当時日経の常務取締役で、電子メディア全般をみていた長田公平につながり、さらに朝日のデジタルメディア本部長の田仲拓二にも声をかける形で、朝日、日経、読売の共同サイト構想が極秘裏に進んでいく。

「もしすべての配信が止まったらばどうするか」 

 そのことをキャッチしたヤフーは恐慌をきたす。と、いうのは、すでに2006年7月に共同通信が地方紙をまとめて、同じアイデアのサイトをつくるということを通告していたからだった。これは「47NEWS」という形で2006年12月にスタートするが、共同通信は、これを機会にヤフーへのニュース提供を止めることも知らせてきていた。

 このうえ読売までもが、配信を止めることになれば、ヤフー・ニュースはそもそも成り立たなくなってしまう。

現在の読売新聞本社 ©文藝春秋

 実際、2006年7月19日には ヤフー社内で、「もしすべての社がヤフーへの配信をとりやめたらどうするか」をブレストする会議がもたれている。当時ニュースの責任者だった宮坂学(2012年に二代目の社長に就任することになる)は、そうなったらば、自分たちで記事をつくると悲壮な決意で主張をしていた。これに対して当時の社長の井上雅博は、「ロングテールの下のほうだったら、自分たちにでもできるが、ニュースの本道は無理だ」と発言している。

 このヤフーの包囲網をどう宮坂が破り、読売をヤフー陣営に残すことに成功したか。孫正義が、当時のグループ本社の社長内山斉に会って、情報料の値上げを申し出た、読売側でヤフーとの交渉をするメディア戦略局の局長に後に日本テレビの社長になる大久保好男が異動してきた、などさまざまな要因があったが、ここでは、ヤフーがハイパーリンクを使ったトラフィック・バックという政策を始めたことについて触れておこう。

「ポータルからディスティネーションまで」 

「ハイパーリンクこそがインターネット最大の発明だ」とは当時のヤフー社長の井上雅博が繰り返しいっていた言葉だ。

孫正義氏(左)と井上雅博氏(右) ©AFLO

 が、井上は、そのハイパーリンクを使ってヤフーの利用者がヤフーのドメインの外に行くことを嫌っていた。当時のヤフー社内の標語に「ポータルからディスティネーションまで」というのがあった。つまりパソコンのトップページにヤフーを登録すれば、ショッピングもメールもニュースもすべてヤフーのドメイン内で済ませられるようにサイトを設計する。そうすることで利用者の滞在時間は増え、これが広告料収入に直結する。

 この「ポータルからディスティネーションまで」のヤフーの大方針を変更し、ヤフー・ニュースに来た客をもう一度、ニュースを提供してくれている各社のサイトにハイパーリンクを使って戻すことを宮坂は考えつく。