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 橋本が箱根を走れなかったのは、強豪・青山学院大学の出身ということが最大の理由だ。実は当初、橋本が青学大を進学先に選んだのは、「箱根駅伝を走りやすそう」だったからだ。入学前年度の箱根駅伝で青学大は5位。その他に声をかけてくれた強豪大学よりも、箱根を走る競争率が低そうだと考えたのだ。

 ところが、橋本が進学後に青学大は予想外の躍進を遂げることになる。

青学では「ずっと11~16番手だった」

 同期には後に「三代目・山の神」となる神野大地(セルソース)に加えて、久保田和真(九電工)、小椋裕介(ヤクルト)ら、高校時代から実績豊富な選手が揃った。彼らを中心に、原晋監督の指導の下でチームは力をつけ、箱根駅伝での初優勝をはじめ黄金時代のはじまりをむかえたのだ。

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「自分が自己ベストを出していっても、強い後輩がどんどん入ってくるんですよね。2年生でやっと箱根駅伝の16人のエントリーに入って、普通だったら先輩が抜ければ10番手には入るんですけど、そこに強力な後輩が入ってくる。なので、ずっとチームで11番~16番みたいな感じで。箱根を走れる10番以内が遠かったですね。練習していても、『こんなに練習しても走れなかったら意味ないよなぁ……』みたいな。結構、思う瞬間はあったんですよ。今考えるとネガティブだったなと思うんですけど。いまでもそういうシーンは覚えていますね」

「ケガから復帰したばかりの神野の方が速かった」

 大学2年時以降はいずれの年も、坂への適性を認められ、箱根駅伝の象徴でもある山上りの5区の有力候補になった。だが故障もあり、最後まで同期の神野を上回ることはできなかった。

「最後の年は神野が箱根本番の3週間前くらいにケガから復帰したんですよね。それでも本番前には僕が半年かけてやってきたタイムよりも、神野の方が速くて」

 結局、最後まで神野のスタート前のアップや給水の手伝いなど、チームを支える裏方の立場だったという。

 

 そんな大学時代の経験をバネに、反骨精神で社会人では成長できたのだろうか。そんな話を振ると、橋本は少し戸惑ったような表情を見せた。