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ビームス社長が阿川佐和子に明かす「43年前、原宿の6.5坪の個人店が全国160店舗以上になるまで」

ビームス社長が阿川佐和子に明かす「43年前、原宿の6.5坪の個人店が全国160店舗以上になるまで」

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設楽さんは電通の社員だったんでしょ?

阿川 でも当時、設楽さんは電通の社員だったんでしょ? 元々、広告マンになりたいと?

設楽 どちらかというとクリエイターになりたかったんでしょうね。だからいまだに職人さんだとか大工さん、ミュージシャンなど、一芸に秀でた人に対して、憧れとコンプレックスがあります。自分自身、音楽をやったり、絵も描いたんですが、どれも本当にすごい人にはかなわないと大学時代に気がついて。その中でも一番クリエイターに近い仕事ができるのはコピーライターなど、広告の世界かなって考えました。

阿川 当時はコピーライターが出始めの頃ですよね。

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設楽 はい。ただ結局、電通で僕はコピーライターではなく、イベントプロデューサーのような仕事をするんです。良かったのは、電通にいたことで、それなりに早く情報を得ることができたので、7年間、リサーチャーとして無償でビームスをお手伝いしてました。その後、電通を辞めてビームスに入社するんです。当初はアメリカの情報がなかなかなくて、ビームスのスタッフたちの間で、いまアメリカで“ニケ”っていう運動靴が流行ってるらしいぞ、と言ってたくらいで。

阿川 アハハハハ。

設楽 買い付けて店に並べる頃になって、「どうもこれ、“ニケ”じゃなくて、“ナイキ”って読むらしいぞ」と(笑)。

阿川 その頃、ナイキのシューズ以外には何が売れました?

設楽 プレッピーブームがあったので、ロゴトレーナーがバカ売れする時代がありました。それでなんとか経営的にめどがつきましたね。

阿川 文字がプリントされたトレーナー?

 

設楽 そう。当初はUCLAの生協に行って大量に買い付けたりしたんですよ。

阿川 それ、税関で怪しまれなかったんですか?

設楽 もう時効ですけれど、初期の頃、税関に問い詰められたことが。靴を大量に持って帰って、「これ売り物だろう」「いえ、僕らのサッカーチームの靴です」と誤魔化したなんてエピソードがあります(笑)。

原宿の6.5坪の店からスタートした

阿川 うちはチームのメンバーが100人以上いてねえ、とか言って?(笑)

設楽 そんな感じだと思います(笑)。最初は原宿の6.5坪、売り場面積は7畳の店からスタートしたので、直接買い付けに行くしかなかったんですね。

阿川 そもそも、ビームスの1号店が原宿にオープンしたのはどうしてだったんですか?

設楽 それまでの戦後の風俗・文化って夜に生まれたんです。赤坂や六本木、新宿なんかに文化人が集まる店があって。それが、学生運動が終わった頃、スコーンと晴れた青い空になって、いままで夜の世界にいた人たちがサーフィンやったりスケボーやったりするようになった。それで原宿に彼らが集まるようになって、「原宿に風が吹いてきているな」となったんです。

阿川 じゃあ、設楽さんの思いつきで原宿に?

設楽 その部分もあります。とはいえ、最初は原宿の片隅だったから、なかなか人は来てくれませんでした。それこそ、デザイナーの人や、僕と親交のあった平凡出版(現・マガジンハウス)の編集者が「ビームスっていう小さいけど、面白い店が出来たぞ」となって来てくれるくらい。大学時代から、当時平凡出版にいた小黒(一三)と僕が友達だったこともあって、彼を通じて人脈が出来たり、情報を教えてもらったりしたこともありました。

阿川 あ、“ロハス”という言葉を世に流行らせた、有名な小黒さん!

設楽 そう。その頃、電通は築地にあって、橋を渡った銀座に平凡出版があったんですね。ある日、橋を歩いていたら小黒が歩いてきて「いま『平凡パンチ』を作ってる」と言うの。彼から「アメリカに行ったらこういうのを買い付けたらいいよ」とか、スタイリストを紹介してもらって。

阿川 へぇ~。最初は、小黒さんの助けもあったんですね。

設楽 確実にありました。平凡出版で『POPEYE』が創刊されてまもなくの頃で、『POPEYE』にビームスの紹介記事が載ったことで初期はなんとか持ちこたえました。