優勝できなくても、早稲田に勝ちさえすれば
そして1933年。この年は春秋2シーズン制ではなく、変則的な1シーズン制で行われた。「六大学当局はシーズンが長期にわたるので学業に影響すること少なくないという見解が多くなり、各校春1回、秋は2回ずつ計15試合、1年1シーズン制が実施され」たと慶応義塾体育会野球部史編纂委員会「慶應義塾野球部史」には書かれている。春の早慶第1回戦は5-1で慶応が先勝。秋を迎えた。
この年は両校とも不調で、既に優勝の可能性はなくなっていたが、「仮に優勝しても、早稲田に負ければ先輩たちから叱られたし、逆に優勝できなくても、早稲田に勝ちさえすればほめられた」と、牧野が「早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶」で語っているように、早慶戦は特別だった。
10月21日の第2戦は、慶応の先発の水原が1回に猛打を浴び、9-1で早稲田が大勝した。そして問題の10月22日の第3戦。神宮球場は両校の学生や一般の野球ファンで超満員。1塁側に慶応、3塁側に早稲田のそれぞれ大応援団が陣取り、目を血走らせて試合開始を迎えた。5回までに後攻の慶応が5-3とリードしたが、6回、早稲田が3点をあげて逆転。慶応もすぐ同点に追いついたが、8回に早稲田は2点、慶応は1点をあげ、8-7の早稲田1点リードで9回を迎えた。
水原めがけて、早稲田応援席から物が投げ込まれた
この試合、水原は先発せず、3塁コーチを務めていたが、再三にわたって審判の判定にクレームをつけ、慶応選手の盗塁アウトを執拗な抗議でセーフに覆したこともあって、早稲田応援団を必要以上に刺激していた。
「これは水原のクセなのだが、ややアゴを突き出し、胸をそびやかすような姿勢が、早稲田の学生にはふてぶてしくさえ映り、再三の抗議への苦々しさを通り越し、憎しみにも似た感情さえ芽生えた」と「早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶」は記す。
9回表、水原は今度は3塁手として出場。目の前の早稲田応援団や早大生の興奮に火をつけた。「守備についた水原に浴びせられる野次と怒号。そればかりか、三塁の守備位置に立つ水原めがけて、早稲田応援席からさまざまなものが投げ込まれた」(同書)。さて、ここからが問題のシーンとなる。当事者の証言を聞こう。
「9回表の守備につくと、ぼくめがけて紙きれや果物の食いさしらしいものや、何かの切れっぱしが盛んにぼくの周囲に飛んできた。小石一つあっても気になるグラウンドに、スタンドからひっきりなしに投げ込まれてくるものが気にならないはずはない。そして、それがコロコロと私の視野に入ってくる。それを丹念に拾って捨てていた。その中、何か大きい果物のかじりかけが足元に転がってきた。ぼくはそれを拾って、守備している姿勢のまま、手を逆に壁の方へ投げ捨てた。これがはたしてリンゴかナシであったかよく分からなかった。後で『リンゴ事件』と騒がれたのを思うと、リンゴの食いさしのシンであったように記憶している」(水原茂「華麗なる波乱」)