今年の東京六大学秋季リーグは慶応が3季ぶりに優勝したが、もし早慶戦に連勝していれば、91年ぶり2回目の10戦全勝を記録するところだった。その年、1928年秋のエースは水原茂。のちにプロ野球選手としても活躍。巨人などでの名監督としても知られるが、それ以前に彼の名前を世間に知らしめたのは1933年の早慶戦での「リンゴ事件」だった。
「日本野球が続く限り、リンゴ事件は永久に語り継がれるだろう」。そう書いている本もある(池井優「東京六大学野球外史」)。「近代日本総合年表」にも1933年10月22日の項に「早慶野球試合で紛争起る(水原選手の〈リンゴ事件〉)」と記述されている。しかし、86年たったいま、内容を知っている人はもちろん、名前を聞いたことがある人はどれくらいいるだろうか?
有名女優と並んで人気だったのは“慶応の水原選手”
まず予備知識が必要だろう。まだプロ野球は存在していない。テレビ放送もない。いまと比べて極端に娯楽が少ない時代、東京六大学野球、中でも早慶戦は、いまとは比べものにならないくらい、庶民の注目を集めた大スポーツイベントだった。
特に今回の「事件」の主役・水原茂は、慶応大野球部の同期でのちに日本高等学校野球連盟会長を務めた牧野直隆がこう述懐するほどの存在だった。「銀座通りのブロマイド屋さんには、栗島すみ子、田中絹代といった人気女優と並んで、水原君の写真もあったほど。それが不思議と思えないほど、六大学野球の人気があった時代だったんだ」(富永俊治「早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶」)。
かつての「ハンカチ王子」、早稲田大時代の斎藤佑樹投手をはるかに上回るスターだった。リンゴ事件は、彼の前にかじりかけのリンゴが転がってきたのが発端。しかし、それがなぜ年表に載るような大事件になったのか。いま振り返ってもよく分からないところがある。
慶応大野球部は1885年創立。早稲田大野球部は1901年創立で、1903年11月に初の早慶戦が行われた。しかし、1906年11月の対戦の際、応援が過熱。両大学上層部の判断で以後、対戦は中止された。1925年、6校が参加するリーグ戦として東京六大学野球が発足。早慶戦も19年ぶりに復活した。
その後、慶応に香川・高松商から宮武三郎と後輩の水原らが入学。水原は1927年の全国高校野球選手権大会で優勝投手となった鳴り物入りの新人選手だった。慶応は1928年秋にはシーズン10戦全勝で優勝するなど、強豪ぶりを発揮。
これに対し、早稲田も敵愾心を燃やして対抗。森茂雄ら「六大学野球部物語」は「昭和4、5年ごろの早慶戦が最もその絶頂期といえよう」としている。1931年春の2回戦では、投手水原の時に、三塁走者で水原の永遠のライバルといわれた三原脩(のち西鉄、大洋監督)が劇的なホームスチールを決め、大きな話題に。選手ばかりでなく、応援団、ファンも年々過熱する一方だった。