“張本人”の水原はどうなったか。

 いったん謹慎処分とされたが、それから半月もたたない1933年12月4日付朝日夕刊の1面トップに「土蔵に立籠り 麻雀賭博中検挙」という記事が載った。「警視庁が文壇人、有閑マダムの賭博沙汰を検挙したばかりの折柄、三日早暁、芝三田同朋町3、麻雀同朋クラブ(経営者金坂しげ)の常連35名が、土曜日の前夜から、同クラブの奥座敷に当たる裏手土蔵内の10畳敷の室内に集まり、戸外には女中を見張り番にさせて徹夜で麻雀合戦中を、三田署ではかねての内偵に基づき、これを麻雀賭博とみて多数の私服刑事出動。クラブを包囲して合戦中の35名を全部同署に検束。演武場に押し込めて朝来取り調べに没頭している。検挙された中には―」。その後に大きい活字で「水原慶大野球選手以下慶大学生8名……」と続く。

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 全員翌日帰宅を許されたが、慶応野球部は12月4日、「謹慎中何事ぞと」(12月5日付夕刊見出し)水原の除名を決定。大学当局も6日、50日間の停学を言い渡した。あまりの“タイミングのよさ”で、裏に何かあったのか勘ぐってしまうが、本人はこれについては何も語っていない。いずれにせよ、不本意な形で野球部を去って行った。

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奪われた指揮棒はどこへ……?

 慶応応援団の指揮棒については後日談がある。「東京六大学野球外史」によれば、奪ったのは早稲田の応援団ではなく、この日招待された別の大学の応援部員だった。指揮棒を3つに折って羽織の下に入れて持ち帰った。気がとがめたが、返すこともできず、その後、「満州」に渡った際も持ち歩いた。戦後の引き揚げの時、ワシの部分を含む上部は持ち帰ってきた。それは元早稲田応援団副団長の手を経て1972年、NHKのテレビ番組を通して39年ぶりに慶応側に返還されたという。

「リンゴ事件」の際に奪われた慶応応援団の指揮棒とそれを持つ団長(「東京六大学野球外史」より)

けんか両成敗のしわ寄せを水原に負わせた

「慶應義塾野球部史」には、当時のマネジャー井上高明が「リンゴ事件の私の記録」という文章を載せ、決着に至る裏側を明かしている。最後に「解決のためとはいえ、塾応援団の立場を抹殺し、水原君の行為に十分の検討を加えず解決したことは、ことに心残りのすることでもある」と、けんか両成敗のしわ寄せを水原に負わせたことを認めている。

 一方、水原は、同書の中で「私はいまでも思うのだが、当時の審判がグラウンドに物が投げ込まれるのを見て、何らの処置も講じなかったのは怠慢であった」「私がリンゴを投げ返したということだけを誇張して謝罪呼ばわりは、全く理由のないものだった。それなら、リンゴは果たしてどこから飛んできたのであるか。グラウンドに物を投げ込む者のことを忘れて、投げ込まれた物をグラウンド以外に整理した選手が責められるわけがどこにあるか。本末転倒も甚だしい」と強く反論。

「事件」から半世紀後に出版した「華麗なる波乱」でも「試合中、球場や選手に物品を投げることは実に言語道断のことである」「非は果たしていずれにあるか。後年、このリンゴ事件をうんぬんする人は多いが、遂に誰一人も守備中の選手に物品を投げる非行を指摘したもののないのは不可解である」と怒りを隠さなかった。 

「リンゴ事件」を報じた東京日日新聞