早慶の応援席は固定されることに
「リンゴ事件」翌年の1934年、ベーブ・ルースらアメリカ大リーグ選抜チームが来日。それを機に日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(巨人の前身)が創立される。水原もそれに加わって、プロ野球に活躍の舞台を求める。だが、やがて戦争の影は野球にも伸び、六大学野球は縮小を余儀なくされた挙げ句、1942年秋のリーグ戦を最後に解散命令が出される。
最後の早慶戦として名高い試合が行われたのは1943年10月16日。早稲田の戸塚球場においてだった。その後、学生たちはグラブやバットを銃に持ち替えて戦場に向かった。そして、早慶戦の復活は敗戦後の1945年11月まで待たなければならなかった。
プロ入りした水原も1942年、召集されて「満州」へ。敗戦後シベリアに送られ、2年近く、抑留生活を過ごした。1949年7月、復員。その足で後楽園球場に向かい、グラウンドから坊主頭で「水原、ただいま帰って参りました」とあいさつした。その後、巨人の監督となって8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝いた。筆者の世代だと、3塁コーチに立った姿を覚えている人が多いだろう。大リーグ仕込みの「ブロックサイン」を日本で初めて導入。「勝負師」の半面、野球の監督として際立ってスマートでダンディーだった。
巨人退団後、東映(当時)の監督に転身して再び日本一に。中日の監督も務めたあと、野球解説者となって、1982年3月、73歳で死去した。生前の1977年に野球殿堂入り。野球人としても華麗で波乱の人生だった。ちなみにこのリンゴ事件以降、早慶戦は常に1塁側が早稲田応援席、3塁側が慶応応援席に固定されるようになった。
【参考文献】
▽「近代日本総合年表第3版」 岩波書店 1991年▽池井優「東京六大学野球外史」 ベースボール・マガジン社 1977年
▽富永俊治「早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶」 講談社 2003年
▽森茂雄ら「六大学野球部物語」 ベースボール・マガジン社 1956年
▽「慶應義塾野球部史」 慶応義塾体育会野球部 1960年
▽水原茂「華麗なる波乱」 ベースボール・マガジン社 1983年
▽飛田穂州「早稲田大学野球部五十年史」 早稲田大学野球部 1950年
▽赤川太郎「リーグの欠陥と早稲田の脱退」=「文藝春秋」1932年6月号所収