昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

慶大スター選手が退部の大騒動「早慶リンゴ事件」で浮き彫りになった“六大学野球の欠陥”

“かじりかけのリンゴ”が歴史に残る大事件になったのはなぜか #2

2019/11/02

中学などから優秀な新人選手を競ってかき集める

 分かりづらいが、そこには現状への不満と問題意識があったのだろう。「六大学野球部物語」はこう説明している。

「これらの最も近い原因をなしたのは、5月1日のリーグ理事会において諸決議があった中にただ一つ、新人選手のリーグ1年間出場禁止の件の廃棄に対する早稲田の反対及び、5月6日理事会において、当時の早稲田の監督であった大下常吉氏が入場無料、指定席廃止などの提案を拒否されたことが大きな動機になっている」

 新人選手の1年間出場禁止というのは、大学の野球部に入部した選手は、建学の精神の習得など、大学の代表にふさわしい要件を身につけるまでは試合に出場すべきでないという理由から、1年前に決められた条項だった。

「文藝春秋」1932年6月号に赤川太郎という人物の文章「リーグの欠陥と早稲田の脱退」が載っている。スポーツジャーナリストなのか、早稲田寄りの立場から六大学リーグにさまざまな問題があると指摘している。リーグの浄化改造、全国的統制問題、応援団の無料入場問題、指定席廃止問題……。中で「各校野球部はかなり優秀選手の見越し輸入をやった。慶応、明治、法政は、誰が見ても見越し輸入の親玉であった」と書いている。つまり、六大学のチームの中には、文部省が危惧したように、中学などから優秀な新人選手を競ってかき集める行為がかなり目立っていたということだろう。

©iStock.com

 赤川はさらにこう述べている。

「野球が今日のごとく圧倒的人気を得たことは、一は永き歴史のたまものであり、一は気運がしからしめたものであって、決してリーグ幹部の努力だけがその原因ではない。リーグ成立以来16年間、役員の権限を規定した明文もなし、会計制度も確立せられず、世間の眼がグラウンドの勝負にのみ注がれて、リーグ本部の金庫や帳簿が閑却せられておるのをいいことにして、幹部は勝手気ままに振る舞ってきたのである。その結果がある幹部の積立金費消事件となり、構内売店権利金及び売上金割り戻しな等々の奇怪な事実となって現れてきた」

 赤川の主張は六大学リーグに対する激しい攻撃であり、同誌8月号では、腰本・慶応野球部監督が反論。「赤川氏もリーグを攻撃することに専念せず、改造に対して一肌脱いでいただきたいものである」と注文をつけている。

選手と女優のスキャンダルといえば……

 早稲田は東京運動記者倶楽部の説得の結果、秋にリーグに復帰する。しかし、東京六大学が急激で爆発的な人気を集め、それに伴う入場料収入が膨張した半面、機構や制度が整備されないまま、いろいろな課題を抱えていたことは間違いないと思われる。

 この時期、「東京六大学リーグの改革」が声高に叫ばれたのは理由がないことではなかった。それが六大学内部での意見の亀裂となり、ひいては、「改革派」の早稲田と「守旧派」の慶応と色分けされ、早慶両校野球部と応援団の対立につながったと考えるのが自然だ。

 そして、選手と女優のスキャンダルといえば、頭に浮かぶのは水原だろう(実際も水原は映画女優と結婚した)。「早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶」で牧野直隆が語っているように「まさに野球の天才だったね、水原君は。僕らなんかと違って、何をやってもうまかった」「ユニフォームの着こなしもダンディーで、その姿がグラウンドによく映えていた」。

 同書が「ともすれば天才にありがちな気位の高さや、スター選手ならではの派手な生活」だったとする水原は、当時の改革論者から見れば、学生野球の問題点を体現したような人物。リンゴ事件に巻き込まれ、その混乱を収拾させるに当たってスケープゴートになったのは不可避だったように思える。

東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)で監督を務めた ©文藝春秋