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近く戦争……荒々しい空気が広がっていた学生野球

 実は早稲田応援団の言動は以前から問題になっていた。前年1932年11月21日付朝日朝刊には、前日の早慶戦で早稲田が勝利した後のことが載っている。

「折角の勝利を汚す 早大応援団の乱暴」の見出しで「勝ち誇った早大応援団は台風のように球場を打って出」、神楽坂を通過する際、酒屋になだれ込んだ。「1升1円60銭の酒40本を手に取り上げ、数本はエビ茶の応援旗に包んで持ち去った」。店は神楽坂署に被害を訴えた。さらに、リンゴ事件の前の10月1日に行われた早稲田対立教戦で、早稲田が9回に2点差に迫った時点で日没となったため、審判団がサスペンデッドゲームを宣告し、翌日同じ状態から試合を再開することにした。

 ところが、ルールを知らない早稲田応援団は負けたと勘違いして、一部が「不当な決定」と騒いでグラウンドに乱入。その後、早稲田野球部合宿所に押し掛けて、決定に同意した大下監督らを「弱腰だ」と追及し、翌日の応援ボイコットを決めた。「それほどまでに早稲田応援団は札つきにも等しい血気盛んな集団だったのである」(「早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶」)。

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 この年、前年に起きた犬養毅首相が殺害された「五・一五事件」の裁判が続く中、8月には大規模な関東地方防空演習が初めて実施された。戦雲が徐々に迫る中、荒々しい空気が学生の間にも広がっていた。

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大騒動の背景に“ずさんな運営システム”

 それにしても、早慶両校とも、それだけ自説に固執した理由は何だったのだろう。そこにはリンゴ事件だけではない、当時の背景があったと思われる。1933年の東京六大学リーグが1シーズン制となったのは前年3月に文部省が出した「野球統制令」のためだった。当時は、野球人気が高まる半面、統一的なルールがなく、さまざまな問題が表面化していた。

 大会が乱立。入場料収入が増える中、金銭授受が横行していたといわれる。東京六大学発足以前の学生連盟は年間40万円を超える入場料収入があったが、会計処理は不明瞭だった。学生野球の商業化や選手の商品化、大学による中学選手の引き抜きなどの問題が指摘され、スター選手と女優の交際がメディアで騒がれた。そのため、文部省は関係者らからなる野球統制臨時委員に学生野球の健全な施行のための方策を検討させ、その結果、全国大会の限定や入場料収入の報告などを決めた。

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 それでも効果は疑問視されていたようだ。1932年春、早稲田は突如、六大学リーグ脱退を表明した。声明の内容はこうだった。

「近時野球の一般的発達に伴い、ややもすれば弊害を生じ、現在の連盟組織をもってしては到底それを矯正し得ないと考うるがゆえに、わが早稲田大学野球部は、ここに三十年来の伝統的精神に生き、今日のスポーツ浄化を期せんがために断然意を決し、ここに六大学野球連盟の加盟を脱し、今日われらは本来の目的たる学生スポーツの精神を以って心身の練磨体育の健全なる発達を期せんと欲するものである」