狡猾な関東軍の策略に謀られて天津を脱出した宣統帝の悲劇! 筆者は当時の天津総領事

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「満洲皇帝擁立事件」(解説を読む)

家庭的にも恵まれなかった溥儀氏

 溥儀氏は家庭的にも薄幸の人であった。実の母は次第溥傑氏の出産後間もなく他界したので、幼少より侍女に育てられたが年を経るに伴れて実母追慕の念は高まり屢々侍従臣に対して淋しさと物足らぬ感じを洩らしたといわれ、後年彼に接した内外人が何となく淋しい感じを受けたのもこの事情による所が大きいと思われる。

 又、昭和10年満洲皇帝として日本皇室への謝恩訪日中、貞明皇后の慈愛に満ちた御待遇に対し実母の愛とは斯るものならんと述懐された事があった。

 尚以上の様な家庭的環境から溥儀氏の生活は皇后はいつも夫婦の間は極めて円満であったが、皇后は生来蒲柳の質で何時頃か阿片吸煙の悪癖がついた事は溥儀氏の悩みであった。溥儀氏はなんとかしてやめさせたいと心から思っておられたが、どうしてもやめない。溥儀氏の満洲行きの心裡には、生活環境の変化により或は皇后の悪癖が直せるかも知れぬと云う一縷の希望があったようである。

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満州皇帝 ©︎文藝春秋

年金の約束は一度も実行されず……

 1912年の辛亥革命を避けて紫金城からようよう身を以て難を避けて、日本公使館に着いた時は本当に着のみ着のままと云う有様であったが、当初は其の生活に困る様な事はなかった。その上革命政府との間に退位に関する交渉で、終生宣統皇帝と称する事と、年金400万元を革命政府が支出する約束が出来たので、将来の生活については何の不安もなかった。然るに年金の約束は一度も実行されず天津遷居後銀行に預金した30万元も、不幸にして銀行倒産のため不明になって、昭和3、4年頃にはいよいよ溥儀一家の生計は困窮を訴える様になった。

 天津での溥儀氏は頗る質素な生活で家従は門番迄を含めて十数名に過ぎなかったが、皇帝時代の師伝鄭孝胥一派と純帝王学者で当時80歳に余る陳宝琛一派の生活も支持せねばならないので、已むなく、北京から天津へ持参した書画骨董の売食い生活を続けた。書画骨董は上海又は日本で売却したが其の間に立った者が鞘を稼いだとか、誰がどれだけ着服したとか云ういさかいが絶えず、溥儀氏もこれには困って居られた。