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連載昭和の35大事件

関東軍に翻弄され続けた満州国“ラストエンペラー”・溥儀の数奇な運命とは

満州国の皇帝となった男の生涯

2019/11/03

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア, 政治

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「支那側が突然租界内に発砲したから日本軍は防戦しているのだ」

 手榴弾事件後2,3日は何の事もなかったが11月6日突然、支那側から、日本祖界内に多数の武器が隠匿されているという情報があったので、早速警察で調査したが、その事実はなかった。翌日支那側から再び同様の情報を伝えて共同調査を申し出て来たので、警察で再応調査の結果、支那側指摘の場所以外の空家から、日本軍用の小銃五百数十挺が見つけられ、駐屯軍側に対し、軍の盗難品ではないかと婉曲に訊ねたが、軍側は飽くまで、軍使用のものではない、恐らく誰かが密輸入したものに違いないと主張するので警察署で保管処理する事にした。

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 忌わしい事件の続発で、日本租界内の空気はなんとなく不穏であった。すると8月の昼頃に風体のよくない支那苦力が支那側から盛んに日本租界に入って来るという報告があったので、租界警察は警戒をいよいよ厳重にした。其夜11時過ぎ、突然日本租界で小銃の音が起ったが、それは日本駐屯軍と支那郡巡警隊が租界境界線で撃ち合っているのだった。この銃火の交換で往来は、猫の仔1匹も通らず森閑として、時々豆を煎るように、機関銃や小銃の撃ち合いが耳にひびくだけであった。筆者は、急拠司令官官舎に出かけていった。すると、官舎の応接室に、平服姿の土肥原が傲然と坐し、司令官や幕僚に対し、馬廠駐屯の支那軍には既に連絡してある故、支那側をやっつける事は余り時間は要らぬ、などと豪語していた。私はこれによって日本側がすべてをチャンとお膳立てをしていたのだなと直感したのである。土肥原は、

「支那側が突然租界内に発砲したから日本軍は防戦しているのだ」と云うが私は、

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「どうも今の君の話では、君等の方で何か手を打っている様に思われるじゃないか」

 と言うと土肥原自身はなにも云わず、傍にいた駐屯軍の青年将校が大慌てで、

「大佐殿、それは違いますヨ」

 とかなんとか云って、空ットボケて、あいまいにしてしまい、その間に、土肥原は、コソコソと座を立って室外に消えた。

日をまたいで続く小銃の撃ち合い

 他方、支那側からは、矢を引くように度々電話や使者をよこして、日本租界線上から、得体のしれぬ若力が支那街に小銃を撃ち込んで来たので巡警隊(支那の警官隊) は自衛上応射したところ、今度は駐屯軍が撃ち始めた故至急射撃中止をして欲しいと言うのであった。そこで今は何れが先に発砲したかと云う問題よりも、一刻も早くこの撃ち合いを止める事が肝心と認めて、その意志を支那側に申入れた。

 8日夜半から始まった祖界線上の小銃の撃ち合いは大した損害もなかったが、翌9日未明から、駐屯軍は予て兵営内に秘密裡に据え付けた重砲をついに支那側に撃ち込み始めた。各国領事館からは問合せて来たり、また支那側は小銃だけの撃ち合いをしているのに、市街内に重砲を撃ち込むのは乱暴じゃないと抗議して来る。ようやく軍司令部に申入れた結果、重砲の発砲は数発で終わった。しかし、小銃の撃ち合いは、ずっと間断なく続いた。

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 その夜の明ける頃は、間を置いて銃声を聞く程度であった。突如10日の夕方から駐屯軍は祖界の町角に武装兵を置き通行を禁止した。その理由は軍司令官が戒厳令をしいたと云うものであった。早速司令官に糺すと、戒厳令を施いた事はない、只夜になると撃ち合いが頻繁になるのでなるべく通行をしない様注意しているだけだと答えたが、しかし当夜の戒厳令はまさしく溥儀氏引き出しの為に仕組んだ、芝居のクライマックスだったのであった。