不審な日本人、上着の下には小形のピストル
10月20日頃、天津の日本祖界にある中国旅館に止宿中の満鉄嘱託と称する3名の日本人が毎晩日本料亭で支那人を招いて豪遊していた。日本警察署では、金遣いが荒く、不審の点が多いので、いろいろ訊ねて見たが一向要領を得ないので、已むなく筆者が会ってみる事にした。3名のうち一番年嵩の人に会ってみると、従前からの知り合いで、満州事変直後奉天市長室で話し合った土肥原賢二大佐(後の大将)だった。また土肥原の一行と云うのは、影佐禎昭中佐(後のラバウル司令官中将) と終戦当時の憲兵司令官であった大木中佐(後の中将)で、何れも関東軍の有力幹部でそれぞれ変名を使っていた。
いろいろと話し合ってみると、満鉄嘱託と云うのは口実で満洲事変に対する北支官民の観察なり態度なりを調査に来たもので、変名を用いたのは中国側の警戒を避ける為めだと言ったが、筆者には、土肥原大佐の弁明は、どうしても、スッキリしなかった。更に筆者に異様の感を与えたのは、土肥原が上着の下に小形のピストルを吊って居た事であった。
ある日届いた果物かごの中に支那製の爆弾が
それから約1週間の後、たしか11月3日頃だったが、日本租界宮島街の溥儀氏邸に奉天市長趙欣伯の名刺入りの果物籠が2個届けられたので、あけて見ると爆弾が一個宛入っていた。趙欣伯は土肥原大佐の跡に奉天市長になり、其後満洲国の立法院長(司法大臣)になり、憲法調査の使命を帯びて日本に約半年程滞在した事がある。
果物籠に入っていた爆弾と云うのは、シトロン缶の恰好をした支那製の手榴弾で、ために溥儀氏夫婦を始め家従一同は恐怖のドン底におちいり、それからは、邸内外護衛の警察官も平常の2倍になった。
此の手榴弾が単におどかしに過ぎぬか、それとも有効弾かを、翌日、天津駐屯軍の工兵隊で調査したが、轟然爆発し担当将校を負傷せしめて有効弾たることを立派に証明したのである。
この爆弾事件の裏には、土肥原一派の強引極まる陰謀があったのである。
溥儀氏の引出しには日満人が直接間接に説得に努めたが、ハッキリ断られた。そこで正攻法ではとても駄目だとみてとって溥儀氏及び其の周囲の人々に身辺の危険を感じさせ天津に居たたまれない気分に陥れ、渡満を決意させようと物騒な贈物をしたものなのである。
しかし贈物計画も未発の内に搬出され、却て邸内外の護衛は、厳重となり、何等直接の効果はなかったが、これに依って確かに溥儀氏の心中に天津遷居以来初めて、不安の念を生ぜしめた事によってこの計画は一応間接的に成功したわけである。