「必ず日本政府に直接相談するようにされたい」
昭和6年9月18日、奉天、北大営に近い柳条溝の満鉄線路の破壊を端に発した満洲事変に対し、溥儀氏は、多大の関心を払った。事件発生後数日を出ずして、当時大連にあった、内田康哉満鉄総裁の許に使者を送って此の際如何なる態度を取るべきかを訊いて来た事に依っても窺われる。当時は、まだ関東軍は鉄道沿線だけしか手中に収めて居らず此の先事変が如何に転回するか見当すらついていないので、内田総裁は溥儀氏としては、此の際極めて慎重な熊度を取るべきで、もし満洲問題について、なにかの考えや希望があるなら、必ず日本政府に直接相談するようにされたい。何事も日本政府の意向を汲んで尚も清朝の帝位にあった方として、内外に愧じない行動を取って欲しいと使者を通じて答えた、とは総裁が筆者に直接話したことである。
内田総裁の返答は誠に含蓄のある言葉で、日本政府と直接相談せよと云う意味は出先軍隊の意図に依って軽卒に行動なさるなと云う事である。当時天津総領事として赴任していた筆者は、満洲事変前から、天津で毎週一回位溥儀氏と面談していたので、内田総裁の意見を詳細に聞き、さっそく溥儀氏に会って、内田総裁の話を伝えたところ、更に筆者の意見を尋ねたので――将来満洲に出掛けられる様な場合には、必ず日本政府の意図に従って日本の軍艦で正々堂々と出掛けられたら宜いでしょう、こっそり人知れず出て行く様な事は、かりに一部の人々は許しても、世界各国の同情は得られない、あくまで、公然と出る事が望ましい――というと、溥儀氏も全く賛意を表し、――決して軽率な行動はしない、又一部の人の策に乗って脱出する様な事は、絶対に慎むから安心して欲しい、――と堅い決意を表したのだった。
満洲事変の進展に伴い、今後満洲を民団によって独立させる事は、一応関東軍と満人要路殊に吉林の煕洽、奉天の蔵式毅等の間に決定した。しかし政体については幾多論議の末、立憲君主制にする事に落ちつき、其の中心人物についてもいろいろ論議を交わされたが、清朝発祥の地たる満洲や満洲人を中心とする社会組織の存在等より見て満洲人たる溥儀廃帝を迎える事に一決したようで、これが為め10月中旬頃に至り、溥儀氏を中心として、人の出入りが俄かに頻繁となって来た。