自分に問い続ける「なんで私は私なんやろう」
――これまで作品を読んで、何度もインタビューしてきたなかで、「自分が信じるものを自分で見つける」というのは、西さんにとって作家としても、一個人としても、ひとつのテーマなのかなと感じています。
西 そうですね。今回はあからさまに「信仰」やけど、今までも「価値観は自分で決める」ということを書いてきた気がします。デビュー作はちょっと違うかもしれないけれど。本当に、自分がどう思っているかで世界は変わる。世界が変わるんじゃなくて、自分が変わることで変わる。決定権は自分にあるんやってことを書いてきた気がします。ほとんど同じテーマで書いているということは、やっぱり自分がそこに拘泥しているんだろうけれど、じゃあそれはなんでかというと、自分がすごくブレやすいからなんだろうなと思う。すごく偏見を持ちやすいし、人の意見に影響されやすいし、そういう自分を強く感じて、意識下で恥じてきたと思う。それが作家になって爆発したんじゃないかな。
――意外ですよね。私が西さんにはじめて会ったのはたしか2006年くらいですけれど、その時から自分というものをちゃんと持っている印象でした。
西 「個性を持っている人はこんな風やろうな」と、ちょっと無理して振る舞っていたのかもしれないですね。作家というものはこうでないと、とか。今はもうラクになりましたけど。
――『サラバ!』を書きあげたことで、また気持ちの変化はありました?
西 『舞台』(2014年刊/講談社)を書いた時に、自分のことがすごく好きになれたんです。でもそれでもまた『サラバ!』みたいなものを書くんですよね。どれだけ強く思っても剥がれ落ちるものがあるので、また同じことを書くことになるように思います。今、自分は自分のことを大好きになれたけれど、やっぱりなんで自分が自分なのかっていうことはすごく疑問視しています。「なんで私は私なんやろう」っていうのは未だに答えが出ません。一生出ないですよね、たぶん。パキスタンで学校を襲った反政府勢力に殺された女の子とか、ナイジェリアでボコ・ハラムが自爆テロを起こさせた女の子は、なぜ私じゃないんだろう。その子に代わってあげたいという殊勝な気持ちでは決してないけれど、なぜ私は私なんやろうということは、一生思い続けると思う。それはでも、小説を読んで最初の頃に教わったことですね。
――その、小説というのは。
西 最初に衝撃を受けたのは遠藤周作さんで、その時はまだ中学生で、小説を読むという行為そのものに感動してたんです。高校生の時にトニ・モリスンを読んだことがものすごく大きかった。以前は言葉がきれいやってことくらいしか説明できなかったけれど、今改めて考えてみると、はじめて「どうして」って思わされた作品だった気がします。まず強烈に思ったのは美醜ですよね。モリスンは黒人の女性作家ですが、『青い眼がほしい』(1981年刊/現在はハヤカワepi文庫)で黒人の女の子が白人のベビードールを「かわいいでしょう?」って言われて、どうしてもかわいいと思えなくて解体するシーンが印象に残っていて。高校生って自分が可愛いかどうかって一番敏感な時期でもあるでしょう。その時期にモリスンを読んで、私たちが思っている「かわいさ」ってなんやろうって思いました。この小説は主人公の友だちがその父親にレイプされて子どもを孕むっていう残酷な話ですよね。でも今思うと、父親の若い頃のことも書かれてあるから分かるけど、父親も弱者なんですよね。弱者が弱者を食う構造とか、食わざるを得ないこととか、人間というのは過去があって今ここにいるんやってことをこの小説で思い知らされたし、と同時にどこまで過去にとらわれなあかんねん、というのも思いました。それで引き裂かれそうになってしまう。若い頃は引き裂かれそうな時にどっちかの意見を選んでいたけれど、いまは「どっちも選ぼう」と思えるようになりました。すごく矛盾しているふたつを、込みで認めるようになりました。それは自分がたくさん小説を書いてきたからやと思う。
――以前、いつかモリスンに会ってみたいと言っていましたよね。
西 4~5年前かな、ニューヨークでたまたまモリスンのトークショーに行ったことがあったんです。英語が出来ないので何をおっしゃっているのか分からなかったけど、超照れてくすくすくすって笑ったりして、三つ編みで、めちゃくちゃ可愛かったんです。その時は私、会場でひとりで号泣してて(笑)。モリスンに話しかけたかったけれど、姿見ただけで泣いてしまうので、とてもじゃないけど出来なかった。それほど大きな存在なんです。実は、英語の勉強も兼ねて今も毎日、YouTubeでモリスンを見てるんです。モリスンとジュノ・ディアスが対談している映像があって。ジュノ・ディアスも好きな作家なんだけど、モリスンを前にしてジュノが緊張している(笑)。すごく羨ましいし、すごく分かります。