羽生選手の言葉で気づいた「自分自身の真の気持ち」
これまで多くのアスリートを応援し、その活躍に喜んできましたが、それはあくまで傍観者としてのものだと思ってきました。「応援がチカラになりました」「みなさんは一緒に戦う仲間です」「ファンの皆様、優勝おめでとうございます」……そんな言葉で一体感を強調されることもありましたが、やるのは選手、勝つのは選手、そこに大きな隔たりがあることは否めません。そして、それが当然であり、自然なことだと思ってきました。
しかし、羽生選手は言うのです。この賞はみなさんの思いが受賞したのですよと。そのとき初めて僕は気づいたのです。受賞辞退を予想しながらも、それをひどく寂しく残念に感じている、自分自身の真の気持ちに。羽生選手が辞退するという決断をしても、それは羽生選手の問題であり外野がとやかく言うことではないわけですが、それはひどく寂しく残念だと心の底では思っていたことに。
それを汲み取られた。見抜かれた。気づかされた。
ほかの誰の批判など関係なく、「僕が」受賞を望んでいたのだと気づいた。そして羽生選手はそう願う「僕(を含めたすべての人々)の思い」が受賞したのだと告げた。それはつまり、「ファンの応援がチカラになった」よりも強く、「ファンと一緒に戦う」よりも近く、「おめでとうございます」よりも深く、「ファンこそが羽生結弦なのです」と言ってもらえたような気になりました。こんなに応援しがいのある相手があるものかと涙しました。もはや応援ですらありません。この思いそのものが羽生選手の身体につまって戦うのですから。「僕が」戦うのですから。
羽生選手は今回のNHK杯優勝後、エキシビションに出演した際に、新たな言葉で同じ気持ちを表現していました。司会者に「夢は何か」と問われて綴ったその言葉。「みなさんの期待をしっかりと受け止めて、で、その、みなさんの夢、みなさんが見ている羽生結弦、みなさんが思っている理想の羽生結弦だったり、そういったものにやっぱり僕自身も近づきたいし、いつかはそのみなさんが思っているもののさらに上をいきたいって常に思うんで」という思いを込め一言に集約したその言葉は、「みなさんの期待の結晶」というものでした。
羽生結弦の夢は、みなさんの期待の結晶であること。
羽生結弦は、僕の、あなたの、みなさんの思いの結晶でありたいと言っている。
ファンが彼を見ている以上に、彼がファンを見て、ファンと一体になって「羽生結弦」を作っている。
この記事には「なぜファンの心はつかまれるのか」なんてタイトルをつけていますが、羽生選手はファンの心をつかんでいるのではないのです。
ファンの心「そのもの」なのです。
どうりで的確に射抜かれるわけです。彼は僕の、あなたの、みなさんの心、「そのもの」なのだから。