公開からしばらく経ったが、マーティン・スコセッシ監督の新作『沈黙―サイレンス―』が素晴らしい。このレベルの名監督が本気で挑むと、こうも見応えある時代劇ができるのか、と感心した。同時に、日本で近年作られた大半の時代劇を物足りなく感じていた身には、悔しくもあった。
期せずして日米の現状の差に気づかされたが、実は今から四十六年前、日本でも同じ遠藤周作の小説を原作にして、スコセッシに勝るとも劣らない作品が撮られていた。
その同名映画を今回は取り上げる。監督は篠田正浩。
物語はスコセッシ版と同じだ。舞台は激しいキリシタン弾圧が行われている江戸初期の長崎。誰よりも敬虔な信徒だった師・フェレイラが同地で棄教したことを知ったロドリゴ神父(デイヴィド・ランプソン)は、事実を確かめるべく危険を冒して同僚と共に長崎へと渡る。そこでは、村々の信徒たちが隠れて神に祈りを捧げていた。だが、奉行所の探索と拷問は厳しく、残酷な手段で処刑されていく。そしてロドリゴも、元信徒のキチジロー(マコ岩松)に売られ、捕縛されてしまう。
長崎奉行の井上は信徒たちに残虐な拷問をする様を次々とロドリゴに見せつけつつ、巧みな弁舌で棄教を迫る。その追い込まれる姿が凄まじい迫力だった。というのも井上を演じるのが、岡田英次なのだ。そのため徹底して冷酷に映り、しかも放たれる知性もサディスト性も、尋常ではなくなっている。観る側としては、「この男には絶対に敵わない。棄教以外にロドリゴの逃げ場はない」と、容赦ない絶望感を掻き立てられるしかなくなる。
その絶望感が頂点に達するのが、フェレイラ神父が登場してからである。スコセッシ版ではこの役をリーアム・ニーソンが演じていた。リーアムのフェレイラには、どこかインテリならではの繊細な雰囲気が漂っていて、そのことが棄教してしまった者の弱さに説得力を与えていた。
本作ではフェレイラを、リーアムと対極の、豪傑のイメージのある丹波哲郎が演じる。
それを篠田は、巧みに逆利用していた。一見豪気に見える丹波が、憔悴して苦悩に満ちた表情で「私は役に立ってる。この国の人びとの役に立ってる――」と自分に言い聞かせるように呟き、棄教を促す――。その姿の背後には、これだけの男を意のままに操るまでにした井上の恐ろしさが見え隠れし、ロドリゴの置かれた状況の苛酷さがさらに際立つことになった。
ハリウッドの巨匠が膨大な時間と予算をかけた作品と互角な時代劇を作る力が、かつての日本映画にはあった。そのことを、痛感できる一本だ。