「武装共産党時代」と名付けられるほどの武装集団へ
当時日本共産党委員長だった田中清玄氏は戦後の座談会で、本編に書かれている通りに弁明したが、1993年出版の「田中清玄自伝」では微妙に変化する。
「再建後の日本共産党の書記長だった時に、スターリンは『日本共産党は武装すべし』という指令を出してきた。私自身がこの指令をモスクワから受け取ったんです。この指令にしたがって、後世の史家から我々は『武装共産党時代』と名付けられるほどの武装集団となり、官憲殺傷五十数件という過失も犯したんです」
「ところがスターリンは今度は『日本共産党は極左冒険主義だ。けしからん』と叱責してきたんです。私はこのモスクワからの、責任回避に終始した指令を受け取って『いまさら何を言うか』と心底から怒りが込み上げてきました」。これに対する反論は本編に書かれている。真偽は確かめようがなく、水掛け論だろう。
田中清玄氏は事件から2カ月後の1930年7月、治安維持法違反容疑で逮捕され、3年後の1933年7月、獄中で転向する。「つかまる前に起きた母の諌死と、それをきっかけにした共産主義への疑問がありました」と「自伝」で語っている。田中の母は「お前のような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して、自分は責任がある。(中略)自分は死をもって諫める。お前はよき日本人になってくれ」という遺書を残して割腹自殺したという。
田中は戦後、政財界に食い込んでインドネシアの石油利権などをめぐって暗躍。「右翼の大物」「フィクサー」と呼ばれるようになった。
すごみと愛嬌の落差から見えたフィクサーの片鱗
田中清玄氏には1度会ったことがある。1983年10月初め。ロッキード事件での田中角栄元首相に対する一審判決を10月12日に控えて、メディアは東京・目白台の田中邸前に「張り番」態勢を敷いた。地方から記者の応援をもらい、交代で人や車の出入りをチェック。私はその「仕切り」を担当した。
先輩記者の命令で、張り番のシフトを終えた記者は、陸運局で田中邸を訪れた車の所有者を調べ、電話で「何の目的で行ったか」を聞く。ある日、外から社に戻ると、後輩の「張り番記者」の1人が電話口で目を白黒させている。1台のライトバンの所有者として登録されていた会社にかけたらしい。代わって電話に出ると、ドスの効いた声で「おまえら、何の権利があってこんなことをしてるんだ!」とすごい剣幕。「合法的な取材活動です」と答えたが、「けしからん。説教してやるから、すぐこっちへ来い」。
教えられた表参道のマンションの一室に行くと、秘書兼護衛らしい身長190センチ近くの若い男が。しばらくして現れたのは、小柄で枯れ枝のようにやせているが眼光の鋭い、70代と思える和服の男性。趣旨を説明したが、すぐ「何を!」と怒り出す。どうなるかと思っていると、「ちょっと付いて来い」。連れて行かれたのは近くの割烹。コロッと態度が変わり、笑いながら「さあ、飲め」と言う。「実は最近本を出してなあ」。
要するに紹介記事を書いてほしかったようだ。「田中元首相を激励に訪問」という短い記事と、本の紹介記事を出したが、そのすごみと愛嬌の落差からはフィクサーの片鱗を見た気がした。