「世間は軍国主義に塗りつぶされていく」
塩田庄兵衛「家族国家の重み―『転向』―」は「転向の筋書きはおよそ次のようなものであった」と紹介している。
「共産主義運動に参加した労働者、農民、知識人、学生が治安維持法違反で特高警察に検挙される。拷問で痛めつけられ、不衛生な留置場や孤独な監房でさいなまれる。職を失い、学籍を失う。肉親は世間を恥じ、獄中の安否を気遣って面会所でかきくどく。『家』の問題は最も悩ましい。中国での戦争はエスカレーションを続け、世間は軍国主義に塗りつぶされていく。革命は遠のいた。不動の星座に見えた佐野、鍋山も転向したではないか。獄中で読まされた両巨頭の転向声明は、共感できる点を含んでいる。自分は生きねばならない。教誨師が説教に来て仏教の本を貸してくれる。深遠な精神の世界がそこに開けている。
悪うございました。マルクス主義は間違っていました。これからは日本人の心に立ち返ります、とお辞儀して、この心境、思想の変化を手記にしたためる。自己批判不十分と認定されると、何度でも書き直しをさせられる。こうなれば五十歩百歩、当局の気に入るように書くほかない。『誠意』がお上に通ずると、起訴留保、あるいは執行猶予、仮出獄などの『温情』で報いられてシャバに出られる」
「転向の文学」という言葉が生まれた
1930年代以降、転向を指摘されたり、噂されたりした思想家、社会運動家、作家、芸術家は枚挙にいとまがない。水野成夫(戦後、フジテレビなど社長)ら日本共産党関係者をはじめ、江田三郎(戦後、社会党書記長)、三木清(哲学者)、大宅壮一(評論家)、太宰治(作家)、中野重治(作家)、埴谷雄高(作家)、三好十郎(劇作家)……。
「転向の文学」という言葉まで生まれた。鶴見の「序言」は「『転向』という言葉は、司法当局のつくったものであり、当局が正しいと思う方向に個人の思想のむきを変えることを意味した。ここには、個人の側からすれば屈服の語感がこもっている」「かなりの地位を占める政治家、学者、宗教家が、まずはじめには非転向でとおしてきたかのように論陣をはり、誰かからその転向点に関する資料を提出されると、急にくるりとむきなおって、『生活のために仕方がなかった』と言う例を、戦後の日本は数多くもっている」と指摘する。
「家族国家の重み」は転向しなかった例として宮本顕治(戦後、日本共産党委員長)や河上肇(元京都帝大教授)を挙げているが、やはりそれは少数派だった。
「転向の時代」から80年経った今の日本は
「序言」が転向研究の共通の価値観として挙げているのは次のようなことだ。
(1)転向は必ずしもそのままでは悪いことではない
(2)転向の道筋をはっきりさせる手続きをとることが、本人にとっても公共に対しても有用
(3)転向を研究・批判する者にとって観点の自由な交流を図っていく集団的努力が必要であり、従って、転向の批判も最終的結論に達せず、いくつかの観点が残ることもあり得るし、今後の改訂に対しても開かれている
(4)転向の事実を明らかに認め、その道筋も明らかに認めるとき、転向は私たちにとって、ある程度まで操作可能になり、転向体験をいままでよりも自由に設計し操作する道が今後開かれるようになるだろうし、そのとき、転向体験はわれわれにとって生きた遺産になる――。
「転向の時代」から80年以上がたち、「序言」の指摘からも60年。転向の全体像は明らかにならないまま、歴史の闇に消えて行きつつあるのかもしれない。しかし、はたして転向は、いまの時代の人間とは全く無関係の過去のことと片づけられるだろうか。
本編「『武装メーデー』事件」を読む
【参考文献】
▽神奈川県警察史編さん委員会「神奈川県警察史中巻」 神奈川県警察本部 1972年
▽田中清玄「田中清玄自伝」 文藝春秋 1993年
▽思想の科学研究会編「共同研究 転向 上」 平凡社 1959年
▽塩田庄兵衛「家族国家の重み―『転向』―」=「昭和史の瞬間 上」(朝日選書 1974年)所収
※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。
※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
※掲載された著作について再掲載許諾の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者やその転居先がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部までお申し出ください。