思想が「命を懸けて守るもの」だった時代
1930年代は「転向の時代」と呼ばれた。いま手元の辞書を見ると、「転向」は「(1)方向・針路・方針・立場・態度・好みなどを変えること」とあり、その意味で普通に使われる用語だ。しかし、(2)には、この事件の時代に特別の意味を与えられた解釈が書かれている。
「それまでの思想的立場、特に共産主義思想を捨てて、他の思想を持つようになること」。
思想の科学研究会編「共同研究 転向」の鶴見俊輔「序言」は、転向を「『権力によって強制されたためにおこる思想の変化』と定義したい」と書いている。
軍国主義が進み、治安維持法が存在した時代、特高(特別高等警察)などの脅迫や拷問を受けて強制的に、あるいは自発的に思想を捨てた人がいれば、非転向を貫いて敗戦まで獄中に留まった人もいた。中には思想に殉じたかのように命を落とした人も。転向した人も、多くはそれを「罪」や「恥」として抱えながら、その後の人生を生きた。転向は形の上では「自発的だった」ことが重い意味を持っていたといえる。
現代の多くの人間は、「思想とは命をかけて守るものなのか」と驚き、考えさせられるだろう。そうしたことが日常だった時代だった。
センセーショナルに報じられた「転向声明」
三・一五事件に続いて、共産党員ら約600人が検挙された「四・一六事件」(1929年)で逮捕された日本共産党委員長の佐野学と委員の鍋山貞親が、統一訴訟での一審判決後、控訴審開始前の1933年6月8日、「共同被告同志に告ぐる書」と題した「転向声明」を発表。10日付の朝刊各紙でセンセーショナルに報じられた。
声明で2人は、モスクワのコミンテルンが諸国の労働者の生活と闘争から離れいて、指令が有害だとして「民族的一国社会主義」を主張。中国大陸への侵略戦争を肯定し、戦争への積極的参加が進歩的行動だとした。さらに、天皇制についても、民族的統一を表現するものとして支持することを表明した。
「共同研究 転向」所収の高畠通敏「一国社会主義者」は、その転向を「それから既に四半世紀経過した今日、われわれはこのニ人の転向が及ぼした時代への影響の深さを充分に測り知ることができる」と書いている。「日本帝国主義が満州への侵略を開始することによって、その後十五年打続く戦争への口火を切ったのは、そのニ年前のことだった。そしてそれ以来日本共産党は、戦争に対する唯一の積極的抵抗勢力だった」。その「輝ける指導者」とされた2人の思想の放棄が社会に与えた影響は甚大だった。田中清玄氏の転向表明は約1か月後。「直接のきっかけは佐野・鍋山の転向声明」と語っている(「田中清玄自伝」)。
前後して、中尾勝男、高橋貞樹、三田村四郎、風間丈吉らの日本共産党幹部も次々転向を表明。翌1934年の控訴審判決で佐野、鍋山、三田村は無期懲役から懲役15年に減刑された。「司法省行刑局が佐野・鍋山の転向声明を『思想教化の好材料』として全国刑務所に謄写配布した結果、約一カ月のうち、未決囚の三〇%(一三七〇人中四一五人)、既決囚の三四%(三九三人中一三三人)が転向を上申した」(「一国社会主義」)という。