「民主主義」が共有されない理由は“無関心”
冒頭で引用したように、「バンドって、民主主義だと思う」という言葉を聞いた坂本美雨は「インパクトが強くて」「“民主主義”って政治的な言葉でもあるので」と発言したわけだが、「政治的な言葉」と強調して「民主主義」を捉えるような雰囲気が、近年の日本社会には正直なところ、ある。国民主権を明記した日本国憲法を持つ民主主義国家であるはずが、その社会のなかでは「民主主義」は当たり前の価値観として共有されなくなりつつある。
「戦後民主主義」という言葉を世間で聞かなくなって久しいということもあるし、数年前、SEALDsによるデモにおいて「民主主義ってなんだ!?」というコールが響き渡っていたことを記憶している人も多いだろう。安倍政権による特定秘密保護法や平和安全法制=戦争法の成立プロセスのなか、このままでは「民主主義」が日本から失われていってしまうという危機感を持った人々によって、あのコールは叫ばれていた。
自民党の参議院議員西田昌司のように、日本国憲法に基づく国民主権そのものを激しく否定する政治家すらいるが、日本社会で「民主主義」という価値観が当たり前に共有されなくなりつつある大きな理由は別に積極的なものではなく、端的に言って国民の無関心が原因だろう。TERUによれば
「一人一人の意見をちゃんと聞いて、活動に反映していくのが昔ながらのGLAYのやり方。デモクラシーは自分たちの今の姿を表している」
という気持ちで彼らは「バンドって、民主主義だと思う」という言葉を提示したようだが、日本国民のうち果たしてどれだけの人間が、個人としての自分の意見が国家の活動に反映されていく=国民主権、「民主主義」の在り方について積極的に考え、行動できているだろうか。「政治的な言葉」という漠然としたラべルを「民主主義」に貼り付け、なんとなく煙たい、特に自分が考える必要がないものとして遠ざけてしまっている人間が多いのではないか。先述した日本のポップミュージックシーンの政治や社会問題への接点の少なさも、そういう無関心が原因となっているように思う。
あらゆる人間が発言し行動していくことが「民主主義」
「バンドって、民主主義だと思う」という言葉は、アルバム『NO DEMOCRACY』と同じく、先鋭的・画期的な言葉ではない。だが、有名バンドであるGLAYがこの言葉を提示してくれたことが、日本のポップミュージックシーン、ひいては日本社会の「民主主義」に対する、そして政治や社会問題に対する関心の薄さを、改めて浮き彫りにしてくれたところが確実にあると思う。
2020年以降は、彼ら以外にもたくさんのミュージシャンたちが、自分なりの社会への意見を自由に表現し行動していってくれることを私は望む。そしてもちろん言うまでもないことだが、ミュージシャンに限らず、あらゆる人間が個々人皆そうして発言し行動していくことこそが、「民主主義」なのだ。