小学校の先生の言葉が励ましに
――新聞連載以外に書いたものは、人に読んでもらっていたんですか。
朝井 家族は読んでいたと思いますし、友達にも読ませていたかも。『デイズ』は、はじめて、クラスの担任の先生にも読んでもらいました。僕は中3まで決め台詞を口で言える人種だったので、人に読んでもらうのは平気でした。でも高1の時に「小説を書くのが好きなんて言ったら、モテない!」と思って、それからはひた隠しにしましたけれど(笑)。
――『デイズ』はどうして先生に見せたんですか。
朝井 その先生こそ、僕の日記を「小説みたいで面白い」って言ってくれた先生だったからです。そのころから、日記はほとんど制作日誌みたいになっていて(笑)、執筆過程を日記を通して先生に伝えていたんですよね。それで、結局、2月とか3月に「読んでください」って渡したはずです。そうしたら先生、便箋3枚くらいに普通の黒色のボールペンでびっしり感想を書いて、封筒に入れて渡してくださったんです。それまで日記の感想は赤ペンで書かれていたから、「これは先生からの感想ではなく、読者からの感想なんだ!」と思って、それが嬉しくて。高校を卒業して実家を出るまで、その感想は定期的に読み返していました。先生はまず分量に驚いたらしくて、「こんなに長いものを書いているとは思わなかった」って。当時からクラスで起きていることを小説のなかに落とし込んでいたので、「これは誰々君のことだね」って気づいてくださって、ちゃんと読んでくださっていて。トミダさんに次ぐ読者です。
――それを新人賞に応募したんじゃなかったでしたっけ。
朝井 そうです。だから、初投稿は小学6年生なんです(笑)。文庫本を読んでいたら巻末に募集要項が載っていたので、そこに送りました。あのときは、受賞する気でいました、馬鹿だから(笑)。「あー、どうしよう、受賞して忙しくなる」って思っていたんですけれど、もちろん箸にも棒にもひっかかりませんでしたよ!
――中学生時代もずっと書いていたんですよね。
朝井 毎年1作は長編を書いて、夏休みの自由課題の作品展に出していました……ドン引きですよね(笑)。僕の通っていた中学は、夏休み中に教科は何でもいいから自由課題をひとつ完成させてくる、っていうスタイルだったんです。もちろん理科の自由研究でもいいし、ラジコンを作ってくる子とかもいたり。そして、二学期に入ったら、その作品が学年ごとに並べられて、金賞や銀賞が選ばれるというコンテスト形式だったんです。僕は毎年「国語」を選んで長編小説を提出していました。そしてそれを新人賞に応募していましたね。
その頃、当時の角川書店が「カドカワエンタテインメントNext賞」という、応募作全部に選評を返却するという大変な賞をやっていたんです。本当に大変だったようで、2年で終わっちゃったんですよね。僕はそれに2年とも出しました(笑)。やっぱり、読んだ人の反応がほしかった。ここにオーディション番組好きという性質が活かされていますね。小説すばる新人賞に応募したのも、1次選考、2次選考の結果を全部発表してくれるからです。基本、最終選考の5作とかしか発表してくれないじゃないですか。それだと、自分がどのあたりのレベルの人間なのかがわからなくって。
Next賞はAからEまでの評価があって、5人くらいの編集者の選評がつくんです。僕はCプラスでした。微妙なので喜んでいいのか悪いのかよく分からなかったですね(笑)。
――長編はどんな内容のものを書いていたんですか。
朝井 中1の時には女子3人のごたごたを書きました。クラスメイトに対してうまく怒ることができない女の子の話。いま思ったら、当時から「怒り」は僕のテーマだったようですね。中2の時は『バトル・ロワイアル』(1999年刊/のち幻冬舎文庫)にハマってしまって……あれも1人ずつ減っていくという、オーディション番組と同じ作りですから。よし、これを書こうと思って、クラス名簿を使ってオリジナルの『バトル・ロワイアル』を書いちゃったんです。今でもあれはよくなかったと思う。クラスの人間関係を全部投影して、この子はこの子を殺すんだろうな~、というのをそのまま書いた。原稿用紙512枚ですよ。ひどいですよね。
――それを自由研究で提出しちゃったんですか。
朝井 しちゃいました。しかも『バトル・ロワイアル』って、まず担任の先生を殺さないと物語が始まらないんですよ。僕、開始5枚目くらいで、当時担任だった29歳くらいの女の先生を、教壇の上で生首にしちゃったんです。先生にとってはそれが大ショックだったんですよ。「こんなものは認められません!」って、職員会議の議題にかけられてしまって……。