共産主義者にとって“理想の地”だったモスクワ
実は杉本は以前、国外脱出を計画したことがあった。平澤是曠「越境―岡田嘉子・杉本良吉のダスビターニャ(さようなら)」によれば、1932年、党員仲間と北海道・小樽から小型発動機船でソ連に密航することを考えたが、仲介者が信用できず、船に不安があったことから断念した。
このころの共産党員や支援者にとって、国際共産主義の本拠「コミンテルン」のあるソビエト・モスクワは“理想の地”であり、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリドが指導する最先端の演劇運動は左翼演劇人のあこがれだった。現に華族出身で「赤い伯爵」と呼ばれた杉本が師事した演出家・土方与志と、同じく佐野碩がモスクワにいると杉本は思っていた(実際は2人とも追放されていた)。
「海を越えて行くことは、彼が既に失敗しています。陸続きといえば、満州か樺太しかありません。執行猶予の身である彼が満州へ出ることはできない。とすれば、道は一つ、樺太の国境を越えるだけです」(「悔いなき命を」)。
嘉子にも、メイエルホリドの演技指導を受けて「もっといい女優に」という願望があったという。「このまま日本にいても……」。閉塞状況にあった2人が決断するのにそれほどの時間はかからなかったようだ。
「生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」
そこから越境に至るまでは、自伝「悔いなき命を」と、当時「時局情報特派員」の加田顕治が現地で取材し、「事件」から3週間後に出版した小冊子「岡田嘉子・越境事件の真相」ではかなりの違いがある。
「悔いなき命を」によれば、2人は1937年12月26日、舞台の千秋楽を終え、翌27日、上野駅発の夜行列車で青森へ。「青森から連絡船で函館へ着き、旭川まで。その夜は旭川泊まり。どうにも隠しようのない私の顔です。アイヌの芝居をやるので、その生活を研究に来た、と宿の人に言った手前、次の日は早く起きて、アイヌの家を訪れました。午後出発、翌日朝、海を越えて南樺太へ。その夜は豊原駅前の旅館で一泊。翌日また汽車に乗って、夕刻敷香へ到着。山形屋旅館へ落ち着きました」(「悔いなき命を」)。
「岡田嘉子・越境事件の真相」では「二人を乗せた列車が国境の町敷香駅に到着したのが三十一日夜九時」としている。宿の主人に目的を聞かれた嘉子は「私の父はずっと昔、樺太民友新聞に勤務し、文章生活をしていたことがありますし、生涯に一度は樺太に行ってみたいといつもあこがれていました」と答えた。