人気投票でナンバーワンのトップスターに
キネマ旬報増刊「日本映画俳優全集 女優編」によれば、岡田嘉子は広島市生まれ。地方紙記者だった父の勤務の都合で各地で暮らしたが、元々女優志望で、舞台を経て日活の映画女優に。オランダ人の血を引くとされるエキゾチックな美貌と妖艶な雰囲気を生かし、村田実監督の「街の手品師」などに出演して人気を集め、1925年の映画女優人気投票でナンバーワンになるなど、トップスターとなった。
1927年、「椿姫」に出演したが、村田監督の指導に納得がいかないなどの悩みから、相手役の外松男爵家の御曹司・竹内良一と撮影をすっぽかして逃避行。日活を解雇された。しかし、華族の資格を剥奪された竹内と結婚。一座を作って舞台公演を続けた後、松竹蒲田に入社した。小津安二郎監督の「また逢ふ日まで」「東京の宿」などで好演を見せたが、井上正夫一座で舞台女優に戻る。商業主義に走りがちな映画よりも舞台に自分の場所を見いだしていたようだ。
「私たちの恋には明日がないのです」越境を決意
そこで知り合ったのが演出助手の杉本良吉だった。本名・吉田好正。ロシア語に堪能で、早稲田大を中退して左翼の劇団運動に参加し、日本共産党に入党したが、1933年に治安維持法違反で逮捕され、執行猶予中だった。2人は演技指導を通じて親しくなり、愛し合うように。しかし、嘉子には別居中だが竹内という夫があり、杉本にも、かつての美人ダンサーで当時は結核で闘病中の妻がいた。
嘉子が1973年に出版した自伝「悔いなき命を」には、2人が越境を決意した時のことがこう書かれている。
「私たち二人は、もうどうすることもできないところまで進んでいました。私たちの恋が世間から、周囲の人たちから祝福されないことはよく分かっています。私たちの恋には明日がないのです。二人ともそれはよく分かっているのです。それだけにまた激しく燃え上がる愛情なのです」。
1937年には日中全面戦争が勃発。軍事色が濃くなる中で、非合法共産党の活動や、それにつながるプロレタリア文化活動への弾圧が厳しくなっていた。「彼(杉本)が一番恐れたのは赤紙でした。召集されれば、思想犯の彼が最悪の場所へ送られるのは明らかです」「私たち二人は刻々と周囲を取り巻いてくる暗黒を見つめて、ともすれば黙りがちになるのでした」と同書は書いている。そんな中で嘉子はある言葉を漏らす。
「ねえ、いっそ、ソビエトへ逃げちゃいましょうか」
その時、「彼はハッとしたように私を見つめました」。