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「お陰様で」「ぼちぼち」を世界で盛大に誤解される日本人

日本人的な「3」を選ぶ心性が目指すべきものとは

2017/06/01
note

 日本人同士で「お元気ですか」ってやり取りすることって、稀にあるじゃないですか。

 うっかり「いやー、マジで超絶元気っすよ!!!」と回答すると単なる馬鹿と思われるので、だいたいの日本人ってのは「お陰様でまずまず元気です」とか「ぼちぼちやらせていただいてます」みたいな回答になると思うんですよね。そう思いません?

 あ、思わない人は続きを読まないでください。

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 話が続かないんで。また来週私のコラムを読みに来てね。バイバイ。

 ……と書くと、日本人特有の同調圧力が働いて「そうは思わないけど、まあ、山本の言うことを是としておいて、次を読もう」と考える人が出るわけです。ただ、最近親の介護をしていて思うんですけど、日本人というか日本社会ってそのとき思っている、気持ち、感情、雰囲気をその場でドーンと表現しないように訓練されてるんだろうなあと思う場面が多くあるんですよ。

日本人の『間』というか、言わなくても分かってるんだろ感

 例えば、老夫婦が入院して、お互い身体の具合が悪くて支え合うようにしていて、老奥さんが杖を落としてしまいソファから立ち上がれず、老旦那も膝が悪いのか、かがんで拾うことができなくて立ち往生している場面をよく見ます。大変だな。んで、老夫婦がじっとこちらを見ているんですよね。ああ、拾ってくれってことなんだろうなあ、と察して拾う。こちらも別にそう大きな親切をしているわけでもないんだけど、あまり多くを語らず「どうぞ」と拾って差し出すことを求められるわけです。

 もちろんそうしてやると、老夫婦は「どうも」と言う。この「どうも」が曲者でありまして、「どうもありがとうございます」なのか「どうも余計なことしやがって馬鹿」なのかは分からないようにできている。ひょっとすると馬鹿にされているのかもしれないが、この状況ならば感謝してくれているに違いないのです。きっと親切で拾ってくれるだろうということを予測して動き、感謝の意味を込めて短く礼を言うことで察してくれることを願っているのは、ある種の日本人の『間』というか、言わなくても分かってるんだろ感が充満するわけですよ。

©iStock.com

協調と我慢の日本人的な感じ

 別に電車の中で席を譲るのでもエレベーターの扉を開けて待っていてあげるのでもいい、ささいな「親切」をお互いに融通しあい、それとなく、さりげないほど望ましいとされるのが日本社会なんじゃないかと思う部分はあります。何かにつけて嫌われる団塊の世代でも、本当に図々しい人は見事かつ綺麗に町内会の幹事から外されたり、行事や宴会に呼ばれない村八分が実施され、かつそれは事後に本人にそれとなく、しかし確実に伝わり、「お前は世間から嫌われているのだ、なぜならば間が読めず図々しいからだ」という暗黙のマウンティングに気づかせて本人の反省を促すシステムが出来上がっているのが世間って奴なんですよ。

 それが、学校教育では「多様性を育みましょう」と多様性のない教師が言い、授業中立ち歩くという多様性を発揮すると、必殺「この子は協調性がない」ということで保護者が呼び出されるというシステムがあるようにも思います。昔はそれで良かったんだろうけど、いまは変な親の出現や外国人児童の増加で、むしろ教師の側が過酷な労働環境の虎の穴状態になって鬱になっていて、擦り切れて辞めるか、悟りを開いたり閉じたりできるスーパー教師になって無双状態になってるので、時代の流れというのは怖ろしいなと思うわけであります。

 最たるものは葬式であって、喪主も家族を失って辛いだろうけど、泣き崩れて葬式が台無しになるよりは、ぐっとこらえて見送りに来た人々に深々とご挨拶するのが日本人、とされることは多くあります。東日本大震災の特集を見て、家族を失った人が感情を表に出さず黙々とがれきを片付けていて、私なんかはグッときた側です。辛くても、前を向くんだ的な。ここで泣いたら死んだあいつが悲しむ、みたいな。そういう我慢が日本人的な感じがするんですよね。