二年前の春、ぼくが書いた『コルバトントリ』という小説を飴屋法水さんが芝居にした。ある日の終演後、小柄な男の人が話しかけて来た。男の人は小声で「又吉です」といった。又吉直樹さんだった。もちろん何年も前からテレビでぼくは又吉さんを見ていた。それでも名乗られるまでその男の人が又吉さんだとぼくは気がつかなかった。又吉さんが『火花』を発表する少し前のことだった。
今年の春、二作目が発表された。タイトルは『劇場』。演劇の界隈が題材にされていた。見てもらった劇が書かれているわけじゃない。
人のすることのほとんどは説明なんかできない。しかし「こたえない」を世の中は許さないから、仕方なしに外に流通する「物語」を使って説明らしきことをしようとする。もちろんそれでは何も語れない。語れてないことが語りながらわかるから、わかってもらえない、誤解されている、という呪いの孤独へ首までつかる。
又吉さんは小説で、「理解されないかもしれない」という呪いのかかるその外へはみ出ようとする。そのうえで真正面からその「理解されない」を丁寧に語る。
はじまってすぐの、通りがかった画廊で主人公永田が沙希と出会う場面。たまたまそこにいただけの沙希を『この人なら、自分のことを理解してくれるのではないかと思った。』と永田はいきなり話しかける。話しかけた言葉だけ書き出す。
「靴、同じやな」
「えっ」
「靴、同じやな」
「違いますよ」
「同じやで」
そしてもう一度、今度はやさしく
「同じやで」
ここだけこう抜き出せば永田は気持ちの悪い男でしかない。事実永田は気持ちが悪い。又吉さんは「永田はなぜにこうも気持ちが悪いのか」は書かない。気持ちの悪い永田を気持ちの悪いままその状態の細部だけを書く。丁寧にそれを書く。この世での時間が長くなると、自意識でどうにもこうにも身動きが取れず気持ちの悪いものでしかなかった「かつて」をなかったことにしてたいがいはツッコミにまわる。世間の側につく。その方が通りがいい。又吉さんの小説で出てくる人は違う。ボケとしてそこにいる。理解されないであろう、気持ちの悪い、ボケのままでいる。
これでええんや、と読みながら思う。
「ええかどうかわからんけど」
と永田は笑いもせずにいう。
「こうしかできひん」
と残念そうに小声でいう。
またよしなおき/1980年大阪府生まれ。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属、コンビ「ピース」として活動中。2015年「火花」で芥川賞受賞。著書に『第2図書係補佐』『東京百景』『夜を乗り越える』、共著に『まさかジープで来るとは』などがある。
やましたすみと/1966年兵庫県生まれ。劇団FICTION主宰、小説家。1月『しんせかい』で芥川賞受賞。『ギッちょん』など。