旧作、特に社会派的な風刺の利いた映画を観ると、現在とは扱いが大きく変化している施設の存在に気づかされる。
たとえば、マンモス団地。従来からの交通アクセスの悪さ、建物の老朽化、これに昨今の少子化問題が加わったことで入居者の高齢化が進んでおり、近年ではどこか寂しい「取り残された昭和の遺産」的な扱いになりつつある。だが今から五十年以上前、団地が都市に建築され始めた頃はそうではなかった。都市人口が急激に増加するようになった高度経済成長の象徴として、流行の最先端にあったのだ。
それがよく分かるのが、今回取り上げる『彼女と彼』だ。
製作は一九六三年。翌年に東京オリンピックを控えて東京の都市開発が急ピッチで進められていた時代だ。舞台となるのは東京郊外に新築されたマンモス団地。そこに暮らす夫婦・直子(左幸子)と英一(岡田英次)、英一のかつての同級生で団地近くのスラムで廃品回収に勤しむ伊古奈(山下菊二)、伊古奈の連れている盲目の少女、この四人を軸に物語は展開されていく。
といって、本作の物語には大きな見せ場はない。その一方で、日常描写を通して映し出される「時代の景色」が、まるで主人公のような存在感で浮かび上がってくる。
流行のファッションに身を包み、上品な口ぶりで語り合う主婦たち。楽しげな声を挙げて賑やかに遊ぶたくさんの子供たち。そして、部屋に飾られたお洒落な小物や最新家電の数々。団地が映し出される時、そこに描かれているのは紛れもなく、経済成長の繁栄のもたらす光。映像もどこか煌(きら)めいているように感じる。
一方のスラムは、そうではない。建物も、そこに暮らす人の服装も、全てが戦後の焼け跡のまま何ら変わっていないかのように薄汚く、ひたすらに貧しい印象しか与えない。
本作を監督した羽仁進としては、団地とスラムを対照的に描くことで、「繁栄の裏で忘れ去られつつある、時代の陰」を照射しようとしたのだろう。
だが、今の目で観ると、全く異なる見え方をしてくる。
それは、当時「繁栄の光」を担っていたはずのマンモス団地もまた、半世紀の時を経て次のオリンピック開催を迎える現在の目では、既に「陰」になりつつあるということだ。本作で描かれている輝かしい団地の姿は、今はもう失われゆく光景なのである。舞台となっている団地も、ここでは晴れやかな存在として映っているが、おそらくもう時代から取り残された存在になっているのだろう――。そんな想いが去来してきてしまうのだ。
製作当時には意図せざる無常感を味わえるのも、旧作に触れる楽しみである。