綱渡りだった蒸溜所の建設
バーテンダーの声は、ご祝儀やお世辞ではなかった。2006年、肥土が世に送り出した2本目のウイスキー「キング・オブ・ダイアモンズ」が、同年、WWAを主催するイギリスの雑誌『ウイスキーマガジン』のジャパニーズウイスキー部門で、サントリーやニッカをおさえて最高得点を獲得したのだ。
これで日本のウイスキー業界や愛好家をざわつかせた男は翌年、勝負に出た。
「先祖代々このあたりで造り酒屋をやっていたので、秩父が酒造りに適した環境だとわかっていた」という肥土が、地元でもある秩父に自社の蒸溜所を立ち上げたのだ。
実現までには土地と資金という大きな壁があったが、思いがけず追い風が吹いた。
土地は、埼玉県が秩父で募集していた工業団地の土地をリース契約した。実績のないベンチャーに県が土地を貸したことがないという状況で、断りに来たはずの担当者が肥土のウイスキーへの情熱にほだされて後押ししてくれたのだ。
蒸溜所の建設資金の調達も綱渡りだった。肥土はウイスキーの本場スコットランドの蒸溜器メーカーから設備を取り寄せようと計画しており、建物と合わせると億単位の資金が必要だった。そこで、秩父で書店を経営していた親戚を頼り、銀行から融資を受ける予定だったが、信用のないベンチャー相手に多額の融資をするほど甘くはない。何度も銀行に通って交渉に交渉を重ねた結果、製造設備に関してはベンチャーウイスキーが融資を受けて購入する、施設は親戚の会社が融資を受けて建設し、ベンチャーウイスキーに貸し付けるという変則的な形で決着がついた。
「運が良かったのは、ウイスキーが好きな支店長だったこと。それが一番大きかったと思います」
土地と資金の問題をクリアし、なんとか建設のめどがたったが、最終的に肥土が返済の義務を負う金額は2億円にのぼった。ほぼ未知数のベンチャーにとって、大きなリスクだろう。不安はなかったんですか? と尋ねると、肥土は笑顔で首を横に振った。
「最初のウイスキーを持ってバーを回っていたとき、バーテンダーさんに自分の夢を語っていたんです。いまは父が残してくれた原酒をボトリングして売っているけど、やっぱり自前の蒸溜所を立ち上げたいんですって。そしたら、バーテンダーさんが『もしそのウイスキーができたら、うちでも取り扱いますよ。がんばってください』と励ましてくれた。それがすごいモチベーションになりました。応援してくれたバーテンダーさんが将来のお客さんになってくれるはずだと思えたんです」