用意したウイスキーは発売当日に完売
2008年2月より、肥土は念願の自社蒸溜所でウイスキー作りを始めた。スコットランドの法律で、世界的な基準にもなっている「3年以上熟成させないとウイスキーと名乗れない」という決まりを意識して、祖先が残した原酒を使ってウイスキーをリリースしながら、2011年までしっかりと寝かせた。
そうして2011年、満を持して完成させたのが「イチローズモルト 秩父 ザ・ファースト」。肥土は、7400本を用意した。最初の600本をさばくのに2年かかったことを振り返ればずいぶんと思い切った数字で、取引先の酒屋もその本数を聞いて慄いたというが、周囲の懸念はあっという間に驚嘆に変わった。発売当日、1万円のウイスキーが予約ですべて完売したのだ。しかも、予約は海外が半分を占めていた。
2007年から、世界で最も権威あるウイスキー品評会WWAで5年連続カテゴリー別日本一という評価を得ていたこともあり、世界のウイスキー愛好家が、肥土が初めて自社の蒸溜所で生み出したウイスキーの誕生をいまかいまかと待ち望んでいたのだ。
「夢のようでしたね。そのとき、バーテンダーさんの言葉は本当だったんだって思いました」
秩父産モルト100%
この後、ベンチャーウイスキーのウイスキーは出せば完売となり、同時に評価もうなぎ上りで高まっていった。そして今年、バーボンバレル(バーボンの空き樽)で熟成させていたものを、途中でフィノという種類のシェリーの空き樽に移し替えて風味をより複雑に深めた6年もの「イチローズモルト 秩父ウイスキー祭2017」がWWAの「ワールドベスト・シングルカスクシングルモルト」を受賞。主催のウイスキーマガジンは「設立から10年に満たない蒸溜所のウイスキーが世界一になるのは極めてまれなこと」と讃えた。
この偉業は、徹底的にフィールドに足を運び、現場の声を信じ、手間を惜しまずに誰も真似できない秩父蒸溜所ならではの味を追求したからこそ成し遂げられたものだろう。
ひとつの頂点を極めた男はしかし、既に新たな挑戦のただなかにある。肥土が目指すのは、秩父産のモルト100%のウイスキーだ。
「僕らは大麦(モルト)を製麦業者(モルトスター)から輸入しているんですけど、毎年モルトスターのもとに通って、フロアモルティングという伝統的な製麦方法を学んできました。それでノウハウが貯まってきたというタイミングで、地元のそば農家さんから裏作で麦を作れるんだけど、という話があったので実際に作ってもらったら、非常にいいものができた。それから、自分たちでフロアモルティングを始めたんです。美味いウイスキーを作るために地元の原料が使えたら、そんな素敵なことはない。農家さんも、俺らの作った麦がウイスキーになって世界中で飲まれるなんてすげえなって喜んでくれました」
地元の農家との関係が深まるにつれ、徐々に大麦の生産量を増やし、今年初めて地元の大麦100%のウイスキーを仕込んだという。
いま現在、国産の大麦を使ってウイスキーを仕込んでいる日本のメーカーはほかにないが、この挑戦の意義はそれだけではない。世界のウイスキーメーカーは基本的にモルトスターから輸入した原料を使っており、地元でとれた小麦を自力でフロアモルティングしているメーカーは、日本ではベンチャーウイスキーだけ。その価値は、計り知れない。
個性を極めた秩父産のウイスキーをどのタイミングで世に出すか、肥土はいまから胸を昂らせている。2020年の東京五輪のタイミングか、2023年のジャパニーズウイスキー100周年に合わせるか。その決断が下されたとき、世界のウイスキー愛好家が熱狂するだろう。
写真=榎本善晃